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肥後国志
十五
阿蘇郡 高六万六千二石四斗三升五合五勺三才、但軍役高五万四千六百廿八石三斗二升、村数五百三十七け所、此内今郷村八十四枝郷四十一け所、其外は不載郷帳村名と雲り、此郡に古来郷庄の名有る歟、未考之、俚俗今南郷小国郷と二郷お称す、上古阿蘇国と称して、火の国とは別国也、旧事本紀に、火の国、阿蘇国、葦北国、天草の国とあり、後に火の国お分て肥前肥後と号し、右の阿蘇葦北天草お郡として、肥後国に加へたり、同書に曰、国造紀阿蘇国造の下に、瑞籬の朝〈人王十代崇神帝朝〉後世、火の国造同祖、神八井耳の命の孫速瓶玉命定賜国造とあり、是当郡守始と見へたり、阿蘇郡の事は、異域本邦の書籍にも載之、日本紀景行帝本紀にも阿蘇国とあり、亦釈日本紀に引筑後風土記、肥後国閼宗の県と記せり、当郡に内牧、坂梨、布田、高森、野尻、菅尾、馬場、北里、久住等九手永有り、