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佐藤元海九州記行
熊本の城は、昔し加藤肥後守清正が、数多の猛士お帥て自身に築く所にして、石畳の結構なること、目お驚かせし普請なり、〈◯中略〉都下の人家は、土民お統て二三万も有るべし、江戸の城郭お見が如く、本城お中央にし、武家町、商家町お外囲にして、家居せしめたる地割なり、〈◯中略〉市中士民居住の町々お熟視するに、福岡、広島、岡山等よりは甚だ広く、商人も多く、豪家も有る由なれども、草葺の貧家雑りて見苦き町多く、人の通行するも、右の三城には劣れる様に見ゆ、城外も四方六七里の間は、原野能く開け、田畠甚だ多く、海も亦遠からず、古来肥後お天府の国と称するも強言に非ず、殊に此に熊本府は、九州二島の正中に在て、分内も亦狭からず、若し今夫れ天下の形勢お審に察して、西海お鎮定すべき節度府お置んとするときは、熊本に若くもの有ること無し、壮なる哉、形勝の藩なり、