[p.1169]
二十大隅
地理纂考
大隅郡 桜島 鹿児島お距る事東方一里、四方海岸、周廻九里三十一町余、村落十九、〈武村、古里村、湯の村、西道村、杉浦村、二俣村、白浜村、脇村、高免村、瀬戸村、黒神村、有村、野尻村、赤水村、横山村、小池村、赤生原村、藤野村、沖之島村、〉高二千七百十七石五斗三升八勺一撮、〈◯中略〉人員総計一万千四百二十九人、戸数二千百二十五軒、 島形大抵円し、中央に桜島岳秀出す、人家皆海岸にあり、南に沖子島あり、西南に鳥島あり、北に新島あり、皆当島に属す、さて此島俗に霊亀四年、或は養老二年、或は和銅元年に湧出すといへるは、無稽の妄説にして、兎角論ずるに足らず、按ずるに、続日本紀天皇天平宝字八年十二月、西方有声似雷、非雷、時当大隅薩摩両国界、煙雲晦冥、奔雷去来、七日後、乃天晴、於鹿児島信爾村之海、砂石自聚、化成三島、炎気露見、有如治鋳之為形勢相連望似四阿屋、為島被埋者、民家六十二区、口八十余人雲々とあるお訛れる事論なし、是は同紀に神造島とありて、今の国分郷小島なり、さるお近世騒人文士等、妄りに桜島お天平島、或は宝字峯などヽいへるは笑ふに堪へり、〈神造島の事は、同国国分郷の巻、小村の条に詳なり、白尾国柱曰、皇帝紀雲、霊亀四年向島湧出す、或説、養老二年、向島湧出す、按ずるに、二説思らくは非なり、霊亀養老の間、天長時政録誌曲尽して遺さず、桜島ごときの一島生出せむに、国史に是お登載せざらむやと雲々、〉