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麑藩名勝考
二大隅
益救島〈延喜式 日本紀夜句、続紀夜久、益久、夜古、両朝平壌録、日本風土記並作養久山、海東諸国記作赤島、図書編作葉活島、琉球国志略作野古、〉 府南四十八里、周匝三十五里、港五、大小村落二十余、所隷永良部島、 日本紀曰、推古天皇二十年、掖玖人来、 隋書琉求伝作邪久、唐書作邪古者、並に今の南海諸島に混じ称するものにして、今の馭謨郡一島お付言するものにあらず、通証曰、琉球上世与掖玖混同其名、所謂小琉球者、或指益久而言、世法録海貝亦可証也、按今南島人、七島お指して土噶喇といふがごとし、土噶喇は其七島宝島の名也、掖玖又此方の陸に近き端島、故南島お呼て邪久といえり、当時南島の名称未備ば也、