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日本地誌提要
七十二大隅
沿革 和銅六年、日向の四郡お割て本州お建て、〈後桑原菱刈二郡お増置す〉国府お囎唹郡に置、〈今の国府郷府中村〉天長元年、多袂島お廃して其二郡〈熊毛馭謨〉お本州に隷す、鎌倉の時薩摩守護島津忠久、本州守護お兼ね、子孫多く邑お州内に食む、建武中興、忠久の玄孫貞久おして守護お兼ねしむ、尋て足利氏に応ず、州豪肝付兼重高山(こうやま)城〈肝付郡、伴兼貞長元中此城に移る、因て肝付氏と称す、兼重は兼貞七世の孫なり、〉に居り、独り官軍に属し、島津氏と相抗す、正平十八年、貞久本州守護お第四子氏久に伝へ、内(うちの)城〈日向諸県郡〉に治す、初平行盛の子時信、種子島お領し、北条氏と称し、世々島津氏に隷せず、是に至り時信五世の孫頼時、始て氏久に従ふ、天授中、氏久従弟伊(これ)久と共に官軍に属し、弘和の初、再び足利氏に降る、応永十一年、氏久の子元久、本州及日向守護に補し、勢威頗る振ひ、肝付氏〈兼重の孫兼元〉遂に麾下に属す、元久の後、三世忠昌の時、管内大に乱れ、永正中、肝付兼久〈兼元の曾孫〉再び自立し肝付大隅二郡に拠り、日向の伊東氏と相結び、島津氏と戦ふ、其孫兼続勢漸く強大にして、永禄の初、廻(めぐり)城〈囎唹郡福山村〉お襲ひ取る、九年、兼続卒し、其子良兼兼亮兄弟相継ぎ、僅に高山一城お保つ、天正八年、兼亮の子兼道降お乞ひ、本州永く島津氏に帰す、王政革新、熊毛、馭謨二郡は鹿児島県に隷し、自余六郡は都城県より兼治す、尋て悉く鹿児島県より兼治す、