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比古婆衣

唱更国 唱更の名の事由いまだ詳なる説おきかず、古事記伝に、隼人の別称のごとく説はれたるも、なほ穏当ならぬこヽちせられつるに、此ごろふと史記の中に見あたりたる事のあるに拠りて、考たる説のいできたるお試にいふべし、さるは其史記の呉王濞伝に、漢文帝の時、濞が封国に在て反心ある状お雲へる下に、其居国以銅塩故、百姓無賦、卒賦更輒与平賈とあるお、正義に、践更若今唱更行更者也、言民自著卒更有三品、有卒更有践更、有過更、古者正卒無常人、皆当迭之、是為卒更、貧者欲雇更、銭者次直者出銭雇之、月二千、是為践更、天下人皆直戍辺三日、亦各為更律所謂繇戍也、雖丞相子亦在戍辺之調、不可人々自行三日戍、不行者出銭三百入官、官給戍者、是為過更、此漢初因秦法而行之、後改為謫、乃戍辺一歳といへり、今その大意お考るに、史記にいはゆる践更は、漢世の制に辺塞の戍卒おいふ称にて、唐世の制に唱更行更などいふと、おほかた同じ趣なる戍卒の称なりといへるなり、こなたの唱更も、その唐制に准へて擬びたまへる戍卒の称なりとぞきこえたる、然るは上に挙たる続紀に、大宝二年十月雲々と載されたる前に、八月丙申朔、薩摩多袂、〈二国なり、同紀和銅二年六月の下に、薩摩多禰両国司と見ゆ、〉隔化逆命、於是発兵征討、遂校戸置吏、九月戊寅、討薩摩隼人、軍士授勲有差とみえて、〈此二件お併考るに、此時逆命たるは、二国の隼人なるが薩摩なるお征討たれば、多袂なるは畏れて自伏たりときこえたり、〉十月におよびて、上に挙たるがごとく、唱更国司等〈今薩摩国也〉言、於国内要害之地建柵置戍守之許焉と載られたるは、薩摩国の要害の地に、隼人お守る押の柵お建て、戍卒お置むと奏せるお許し給へるなり、この時その柵お建て、戍卒お置れたるに、かの唐制の唱更の称お擬びて、薩摩お唱更国と改められたるお、〈◯註略〉こヽには国司の称におよぼしたるうへおもてかく記されたるにて、注に今薩摩国也とあるは、後にその戍柵お廃め、戍卒お置るゝさまも替られたるによりて、旧の薩摩の名に復されたりける御世になりて、此紀お撰されたるが故に、今薩摩国也とことわり記されたるなるべし、〈さはいへど、疎にて混らはしき記されざまなり、〉拾芥抄改名所々部に、薩摩国元唱更国といへるこれなり、〈◯註略〉さて其戍柵お廃め給ひ、国名おも旧に復されたる証は、同紀に、養老元年四月甲午、天皇御西朝、大隅薩摩二国隼人等奏風俗歌舞、授位賜禄各有差とみえて、〈唱更柵お建られたる大宝二年より十六年〉是より先に、二国の隼人等の暴戻たる輩は、こと〴〵く平伏たる趣なり、故いはゆる唱更の柵お廃給ひ、〈既に令制も漸調ひて、防人も備はりたるなるべし、〉それにあはせて、国名おも旧の薩摩に復されたりしなるべし、