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地理纂考
十二薩摩河辺郡
七島 鹿児島県庁より南七島の内、口の島迄六十九里なり、在番官交代して島中の事お管轄す、七島とは、口之島中之島、臥蛇島、平石島、諏訪島、悪石島宝島の総名なり、此諸島南海の中遠近に羅列す、北は益救島に近く、南は琉球の内大島に近し、 吐火羅国 一説に雲、往古七島の総名お吐火羅と雲へり、吐火羅は即ち宝島也、後世に至て七島中の一島の称となれり、書紀孝徳天皇紀曰、白雉五年夏四月、吐火羅国男二人、女二人、舎衛国女一人、被風流来于日向、斉明天皇紀、三年秋七月丁亥朔己丑、睹貨羅国男二人、女四人、漂泊于筑紫、言臣等初漂泊于海見島、乃以駅召、辛丑雲々、暮饗都貨羅人、〈或本雲堕羅人〉同紀、五年三月丁亥、吐火羅人乾豆波斯達阿請曰、願得賜送暫還于本国、当留妻以為質、許之、即与数十人入于西海之路雲々、天武天皇紀、三年、吐火羅及舎衛婦女、献薬種珍宝とある吐火羅も、今の七島なりといへり、按ずるに、彼暫還于本国当留妻以為質とあるが如きは、遠からぬ国なるが如く聞ゆれど、舎衛国は中印度境括地志に、沙祖大国、即舎衛国也、在月氏南万里雲々とありて、七島のほとりに同名の島お聞ざれば、以上の説いかヾあらむ、此事猶考ふべし、又和訓栞曰、とから島、薩摩の洋中にある島なり、日本紀に吐火羅に作る、中山伝信録に土噶喇に作る、夫婦の間甚正しく、婦人再縁せず、夫に食膳お奉ずるも眉に斉しくすと雲、薩摩より琉球に至るは、必ず此島お経るなり、薩州人至れば、男女各酒瓶お持来て献ず、終に去れば合掌して敢て顧眄せずと雲、大日本史外国伝に吐火羅国お出し、又舎衛国お載て雲、並不詳其国地之所在とあり、是当時いまだ筑州の宝島七島あるお知らざる故なるべしとあり、和訓栞に至て是お発明すといへども、其風俗お挙る如きは然らず、隻僻島なるが故に、其人物諸島に勝りて朴野なるのみ、偖同書に、とから島薩摩の洋中にある島なりとあるはさる事なれど、書紀にいはゆる吐火羅お、七島の宝島なりといへるは、いまだ其確証お得ず、 漢土人七島説 清人周皇琉球国史略曰、汪楫録雲、七島者口島、中島、諏訪瀬島、悪石島、臥蛇島、平島、宝島也、人不満万、惟宝島較大国人統呼之曰土噶喇、或曰、即倭也、然国人甚諱之、殊不知有日本者、臣間覧其国所置経書、悉係日本所刻、仍用漢文、傍印釣挑字母、且有宝暦、永禄、元和、寛永、天和、貞享、元禄諸名色、又皆日本僭号、則与日本素相往来明矣、一説、七島本国属尚寧王、被襲割地与之、王乃帰、即七島也、今非所属、故不詳前使臣、汪揖至時、適七島人在其国、欲仰観天朝使者、因得一見、至問之、則書手版曰、琉球国属地、是未免国人誑之耳、汪又雲、北山寂無人来、或雲、倭常執王割地乃得返、即北山実則非也、中山伝信録曰、大島徳島崎界雲々、以上八島、国人称之皆曰烏火世麻、此外即為土噶嗽〈亦作度加喇〉七島矣、七島諸島、水程遠近見汪記録、以非琉球属島、故不載、この文に国人統呼之曰土噶喇とあるは、琉球人常に清国に告て、七島の総名お土噶喇と雲ふが故にて、書紀に所謂、吐火羅、睹貨羅等お、七島の総名なる証には取りがたし、又国史略に、七島本国属尚寧王、被襲割地与之、王乃帰と雲るは、清人無稽の妄説にして雲ふにたらず、朝鮮人所海東諸国記渡加羅に作るは、一島の名にして総名に非ず、