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地理纂考
一三国総説
吾田国 隼人国 薩摩国 薩摩国は、延喜式曰、行程上十一日、下六日雲々、所管十三郡、三十八郷、周匝百三十里二十六町十六間三尺、東界大隅、北界肥後、西南至海島と見へ、和名抄曰、薩摩国管十三雲々、職原抄に、日向大隅薩摩等国管于中土など見へたり、さて薩摩も日向国の内にて、太古吾田国、中古隼人国と雲りしは、前にいへるが如し、かくて薩摩の建国お按ずるに、続紀文武天皇大宝二年四月壬子の詔に、筑紫七国と見へたれば、此時いまだ建置なかりしなり、かくて同紀に、同年八月丙申、薩摩多袂、隔化逆命、於是発兵、征討遂校戸置吏焉と見へ、次に同月戊寅、討薩摩隼人、軍士授勲、各有差、また同年十月丁酉、先是征薩摩隼人時、禱祈太宰府所部神九所、実頼神威、遂平荒賊雲々、唱更国司等〈今の薩摩の国なり〉言、於国内要害之地建柵、置戎守之、許焉、また同紀元明天皇和銅二年六月癸丑、勅自太宰率已下至于品官事力半減、唯薩摩多袂両国司雲々、また同三年正月戊寅、薩摩国貢舎人と見ゆ、是より先阿多隼人と記したるお、大宝二年八月以来薩摩隼人とありて、阿多の号無きお思へば、彼大宝二年八月、校戸置吏とあるぞ、やがて薩摩の建置なるべき、諸国の建置は、彼割日向国雲々、始置大隅国とあるが如く記されたるお、其例に違ひ、記しざま慥ならざると、校戸置吏とある同年同月に、阿多お改め始て薩摩隼人と記され、又和銅二年同三年の紀に、薩摩多袂両国司雲々、薩摩国貢舎人とありて、猶次々に薩摩とのみ記して、阿多の号なきお証とすべし、又続紀、元明天皇和銅二年戊申、薩摩隼人郡司以下一百八十八人入朝、徴諸国騎兵五百人、以備威儀也と見ゆ、此郡司とあるにて、いよ〳〵建国の事知られ、又威儀お示されしも、建国の始なるが故なりけむ、さて大宝二年八月、薩摩多袂隔化逆命雲々とあるは、いまだ建国の前なれば、此所に薩摩とは雲まじきなれど、此は後お始に及ぼして記されしなり、