[p.1232]
西遊雑記

薩州の武風お見るに、鎌倉の遺風有りてあしからず、東都へ両度も参勤して、上方筋の風俗お見し士は、中国筋の士風とさして替りし事はあらざれ共、外城に在宅して、薩州の地お離れざる士は、其容体土佐絵に写せし士のごとく、長き刀にはぎも見えるやふ成短き袴、言語も国なまりにて解しがたく、いかにも古しへのぶしのかヽる風俗ならんと、頼母敷体也、秀吉公にこそ手も無く責破られし事なれ、何国の戦ひにても、薩州軍はねばり強くして、きたなき負おせず、土著の制猶其ことはり有べし、百二十余外城にて、士拾三万余、五石取十石取も土著して、自ら耕して作り取にする時には、馬も養はれ、三人も五人は自由に暮され、身体も大丈夫と成て、寒暑も麁食もいとはぬやうに成物なり、上方筋の武風は是に反して、平生の身持十人に七八人迄甘お食し、厚く著し、栄耀に暮し、至て寒く至て暑き節などは、いかヾあらんと頼母しからぬ風俗あり、薩州は海内西南のはしにて、地面理堅固にて、要害いはんかたなし、島津家数代地おかへず、其ことわりなきにあらず、勝地お給ふといふべし、然ども辺鄙なるゆへに、婦人の風俗はいとヾあしく、言語は声高にて、尻張の吟の強き音故に、甚だ解がたし、中以下に於ては、一笑せる言葉多し、中にも脇おとうぞくと称せる事にて、腰の物脇指などヽいふては、土人は一向に知らぬ名也、是等の事お以、僻地なるお知るべし、