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日本地誌提要
七十四壱岐
沿革 古へ国府お石田郡に置、〈今の国分村、壱岐郡に属す、〉鎌府の時、少弐氏島事お管し肥前松浦党志佐(しさ)、〈壱岐郡湯岳村戸城(とじやう)〉佐志、〈同郡中郷及可須村〉塩津留(しほつる)、〈同郡国分村郡の城〉呼子(よぶこ)、〈石田郡渡良(わたら)村〉鴨打(かもち)、〈同郡物部村大屋城〉五氏おして共に島事お掌らしむ、少弐氏衰へ志佐氏終に守護となる、文明四年、肥前岸岳(きしが)の城主、波多泰(やすし)来り襲ひ、悉く五氏お滅し、全島お併せ、亀尾城〈石田郡武生水村〉お築き、守護と称す、天文中、泰の孫盛(さかん)卒して子なし、肥前の有馬義直の子親お迎へて嗣となす、族人之に服せず、盛の従子隆(たか)お奉じて主となす、弘治元年、隆其下に殺せられ、親終に守護となる、既にして其臣日高喜(よし)等其邑に拠て畔き、永禄六年、欵お松浦隆信に送り、波多氏お遂ひ、全島終に松浦氏に属す、徳川氏に至て、松浦氏の封故の如く、王政革新、平戸県より兼治し、又改めて長崎県より兼治す、