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津島紀事
一統体
神代の巻の纂疏に雲く、対馬の和訓は、津といふ心もちにて、海島の中にある津といふ事なり、神代の巻塩土伝に、対馬は古津島と書く、是西北の津なり、又雲、津とはつどふなり、釈日本紀に、対馬島、私記に雲く、問ふ、古事記お考れば、唯津島といふ、今援に対馬の島といふはいかにや、答へていはく、其義まさに同じ、今の俗対馬の二字お読てつとするなり、島の字は文字の如し、しかるに今の人、都志麻の志麻と読ものは誤なり、但此島と壱岐の島との名義は未詳ならず、沙門義堂が撰びし日用工夫略集に、対馬は馬韓に対するの義なりと、本州の儒士に、山撲〈俗名朝三〉著せし州府院石亭の記にも、小島の中に津あればなり、対馬の字お用ふる事は、地馬韓に対すればなりと、字書にも済渡の州お津といふと、塩土伝に島は住むと読、人のすむ処なりと見へたり、日本紀にいはく、素盞嗚尊御子五十猛命お伴ひて、新羅の国に到り、曾戸茂利の処に居給ふと、新羅に降給ひし時は、この国より行たまひしとなん、伝ていちじるし、津島の号は此時に始ける、伝いふ則和漢大海の間にある島にして、両国往来の津湊なればなり、藤仲郷〈俗名兵内〉の雲く、対馬の字お用ふる事は、もろこしの人、この国の名お問ければ、州人答て津志麻といひしお、彼人おのが音声によりて、ついまあかといひて当て、対馬の二字おしるしぬ、これ是れによるならん、〈平戸お飛鸞土博多お覇可台、松浦お末盧と書し類ならん、対馬の字ついまなれば音ちかし、〉本邦上代の風俗は、音によりて文字にかヽはらざりしゆへ、仮りて是お用ひしなり〈愚按ずるに、対馬の字お用て、つしまと読もの、たとへば近淡海お近江とし、母木お伯耆と改られし類にて、字義は当らざれども、古きとなへお捨られざるがごとくならん、〉陶山存〈俗名庄右衛門〉雲く、対馬の字お用る事、地馬韓に対するによれりと、しかれども旧事本紀、古事記、日本書紀等に馬韓の号お載られず、三韓と称せるものは有り、新羅百済高麗おいふ、〈高麗は東国通鑑にいへる高句麗の事なり〉これによりて見れば、本朝新羅と相通ずるの始は、馬韓亡びしの後なれば、なにしに馬韓辰韓弁韓の号あらん、そのかみ書お作れる人のしらざりしならん、されば本州の号おしるす、何すれぞ馬韓に対するの義おとれるや、本州馬韓に対するの説は、後漢書に馬韓の南倭と接するの語に本づくならん、陳寿が三国志の倭人伝に対馬国の号あり、陳寿は晋の武帝恵帝の時の人にして、日本応神天皇の御宇に当る、本邦の人経書お読み、文字おしる事も、応神の朝に始りければ、本州の名おしるすに対馬、又は津島の字お用ひ初たるは、此時より始りけん、〈◯中略〉むかし、島と号へしお、天智天皇の御時更めて国とせられ、文武天皇の御宇に、又島と称せらる、後花園院の朝嘉吉年以来、太宰府及び本州の書物には、定て国としるし、他国にては国又は島としるして一定せず、これ兵乱治らず、朝命通ぜざりしゆへならん、天正年以来、公私一定して国と称せり、三国志に対馬国お記せり、三国志お撰びしは応神天皇の御時なれば、本州の事お、中国にて国と称せしは久き事に侍りぬ、