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津島紀事
一統体
豊臣秀吉公、諸国の石高お定め給ふに、壱岐までは石高お定られて、本州〈◯対馬〉の高は定められず、是に依て公義御代替の我が君に下されける御判物に、対馬国一円とありて穀高おのせ給はず、今吾州の出来穂稲三千石、舂て千五百石、麦二万三千七百石余、精麦一万六千六百石、都合一万八千一百石なり、武用弁略に、対馬の高五千石とし、広益節用集に、対馬の高二万五千石とし、城主記に一万千八百石余と記せるは、ともに聞伝の誤なり、本州の農業は、他国の如く精く詳ならずして、田作の仕かた疏末なりし故に、たヾ原野の地びくなる所、うるほひある所に稲お種へ、水お引て地おひたす所は、僅かに数所あり、古筑紫の稲二千石お以て、国司防御の人々の粮米に宛行れき、〈◯中略〉筑前の水田三十町お以て上県下県の両郡司にあてらる、〈◯中略〉又稲お種るの少きゆへなり、三代実録に、対馬島例格の大豆百石、租地子の穀百石お以て、銀山お堀るの宛行とせらるの事お載せらる〈◯中略〉租地子の穀は稲なり、続日本紀に、神護景雲元年丁未九月朔日、空に五色の雲あり右大臣従二位吉備の朝臣真備対馬島の田三町一段、畠五町二段、雑穀二万束お献りて島の儲へとなすとあり、雑穀は粟蕎麦おいふなり、元禄八年定る所畠木庭の秋、穀粟三千三百石、蕎麦八千三百石、大豆四千三百石、小豆八百石、都合一万七千七百石なり、続日本紀に雲、天平十七年乙酉冬十月、諸国出挙の正税お論じ定め、国毎に数あり、たヾ多袂対馬の両島は并に其数に入らず、