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夷諺俗話

天度之事 今年〈◯寛政四年〉蝦夷地え趣く事、当春二月急々に事極、支度も早々取調べたる事故、北極出地測量の儀器も、師伝の如くためすには甚手重く、儀器急ぐには出来兼る故、予〈◯串原正峯〉が新案の儀器お考へ作らしめ、周脾儀と名付、是お持参せしめ、津軽三厩より、松前蝦夷地の端そうや場所迄の北極出地度お測り得たる処、左の如し、 奥州津軽三厩 四十二度弱 同松前 四十二度 同松前石崎村〈松前より十一里〉 四十二度三十〇分 西蝦夷地せ(かい)きない〈同二十八里半〉 四十二度七十三分 同かいじヽ〈同四十六里半〉 四十三度四十二分 同ふるうみ内「いするし」 四十三度半 同てにしか〈同百十四里〉 四十五度弱 同とまヽい〈同百二十里〉 四十五度 同てしお 四十五度強 同そうや〈同百七十七里〉 四十六度二十三分 宗谷は蝦夷地之極奥にて、三国通覧には、松前より四百里と記したり、其外松前人々に問にも、区区なる答にて、弐百里或は弐百五十里などいふて、決定したる事なく、如此里数定かならざるも、猟場計にて、田畑といふなき事故、境も等閑にて、里数は人々の目分量にて言事なれば、取用ひがたし、殊に蝦夷地場所々々持場広く、宗谷場所の内も、南の方てしお境いきこまないと言所より、内場所の内、北の方しれどこといふ所迄、凡百十四里半あり、此里数之内は、みな宗谷の持場也、斯持場広き事故、手行届かず、里数お改る事もなく、中勘相当の里数凡おいふ事也、此度松前より出帆せしより、船中にて空眼見積おも様し、其場所々々へ数往来なしたるものに委しく聞糺し、野帳に付置、宗谷会所迄之道法、松前より行程凡百七十七里と記し得たり、北極出地松前は四十二度、宗谷は四十六度二十三分相減じて、差四度二十三分也、天の壱度は地球皮にては二十九里半強として里数お積り見るに、松前より曹谷までは、直径百二十五里余なり、曹谷は松前より正北に当れ共、路程屈曲あれば百七十七里と記したるも、遠く失せじと思ふ也、