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本田利明異国話
蝦夷土地開発成就して良国と可成事 すべて庶人のおもはく、蝦夷の土地は雲霧深くして、湿地なれば、住馴れざる日本の人抔は、中々以て住居難成土地也、仮令おして住居するとも、五穀も生ぜざれば食物乏しく、因て忽ち飢に及ばん、殊更に湿気お受、病お発して、廃人と成べし、亦往古より日本の農民度々渡海して、耕作種々に蒔植仕付等して試たる事有といへども、終に稔りし例なし、依て今に至りても開発せざるべし、〈◯中略〉天下万邦、各南北両極出地凡そ二十三度計りより六十二三度に距りても、四季有て、百菓百穀出産して、人民の住居又大同小異なり、然るに蝦夷土地に限りて、霧至て深く湿地成べき筈なきに、如何となればはやく雲へば土地に人民乏敷して、耕作の地面なきゆへ、山岳壙野悉く大樹、或は柴草繁茂せし故、是に覆はれ、地面の陰冷の湿気、大陽の温熱の乾気、各肖壌に昇降せず、地面に屯鬱するゆへ、雲霧悉く土地お蔽ふ、〈◯中略〉此地面お覆ふ所の雲霧お悉く逐ひ払ひ、肖高く押し揚、常の雲となる大計策は、其最初は仁政よりはじむ、御料私領寺社領に毎年死刑に行ふべき罪人お、悉く助命せしめ、左遷の士おも、倶に蝦夷土地に送り遣はし、是に監副の明お加へて守護させしめ、能々蝦夷の土人お教育せしめ、〈◯中略〉於是江州の流水お招き、山岳の渓水お導き、或は井お堀溝お穿ち、用水の流行等の便理お量りて田畑お墾耕して百穀お蒔、農業お為さしめば、終に良田畑と成事慥なり、依之鍛冶木匠お始に遣はし、諸職人も追々遣はし、家宅器財等の制作あるべし、依之銅鉄早速に入用有べし、又土地に金銀銅鉄錫の山岳多くあり既に往古日本より数千人ゆきて砂金お採り、又は山岳お穿ち、黄金お堀採りたりしが、寛文己酉年〈◯九年〉に、彼地さると雲処の長夷しやむしやいんしやうせん一揆の時より、日本の金堀の者共お悉く追ひ払ひ、其後金堀砂金採お松前氏より停止せしといへり、扠又土民撫育教導の制度は、其土地に是迄用ひ来りたる礼義あり、此内の宜敷に拠り採りて、日本の法令お以て保助せしめ、蝦夷土地に都而長者(おとな)といふて、長夷あり、是お直に郷村の名手或は庄屋と役名賜りて、その郷村に法令お是に伝ひ土人に布くべし、天監師お賜はりて、民間暦お制作し、博く国中に頒行あらば、後々は人道備り良民と成、良国と成べきなり、彼地いまだ仏法の沙汰なし、依之是お幸ひに斟酌有べし、前にもいへるごとく、北京王城の土地は、北極出地四十度七十五分にして、百草百穀豊饒なり、蝦夷土地も北極出地凡四十度より五十三四度に距る土地なれば、甚広大にもあり、北極出地に依りて勘考すれば、諸土産も良菓良穀お出すべき道理有、