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辺要分界図考

邾弗加考(ちゆぷか) 東海うるつぷ島より、前路しもしり島より、かむさすか地方に至る迄、凡十余島、〈島みな丑寅に流る〉世の所謂千島にして、蝦夷人之お称してちゆぷかと雲、ちゆぷかとは、日出処と雲の義也、〈蝦夷人は日月お指て、ちゆぷかむいと雲、旅西亜国主お称して、ちゆぶかかもいとのと雲、旅西亜吏人おちゆぷとのと雲、共に日出る処の人と雲こと也、一説に初めろしや人諸島に来るとき、夷人に語て曰く、我国の帝王は日月の尊が如しと、故に夷人ちゆぷかかむいと称し、其属島お、ちゆぷかと雲と亦通ず、〉蛮書に、〈紅毛千七百六十八年、刻する所のもの、〉之おくりる諸島と雲、〈蛮書に曰、かむさすかの南の出崎より、南西の日本の方まで、大小の島連続したるもの、大凡二十五、一二日三十六、其余は詳にしがたし、かむさすかに近きは皆旅西亜に属す、〉その島大なる者十六、小なる者無数、古昔みな我蝦夷の属島たりしに、八十年前、〈正徳中〉旅西亜人かむさすかお併呑してより、漸々に諸島お蚕食して、三十年前よりしもしり迄お服従して、其島々の名お改めて旅西亜の名となし、二十年前より夷人の風俗お易へて、旅西亜の風俗となし、往古より日本に属せし蝦夷人おして、髪お辮み帽子お被り、股引お用ひ靴お穿ち、鉄炮玉薬お与へ、旅西亜人の言お使ひ、旅西亜の仏お頸にかけ、旅西亜より役人并に教法師おして、〈教法師お夷人はようろうしいしやむと雲〉時々諸島へ至り撫順せしめ、其夷人お悉く旅西亜に貢お入るヽに至らしめ、十年前よりうるつぷ島に到りて土著し、傲然として去らざるに至る、かむさすかはくるむせの国地にして、本我蝦夷の種族なり、其地今旅西亜北海の要津となる、嘆ずべきに非ずや、ちゆぷか諸島の地理、前輩の図書大抵疎漏少からず、天明中、最上常矩嘗てうるつぷ島に至り、旅西亜人いしゆゆにけたに迦逅して、其大略お得たり、然れども未その詳なることお得ず、寛政十二年、守重〈◯近藤〉奉命してえとろふ島お按察し、〈えとろふ島も古来日本人往しこと更になし、寛政十年、守重始て此島へ渡りしは、前後日本人渡海の四度目也、其時守重最上常矩と共に此島お見開き、翌十一年、海路お開き、十二〉〈年、山田嘉元と廻船に乗て、くなしり島より同島とりかまいに著帆し、おいとえ会所お立つ、此島日本の船お通じ、日本の家お立し初なり、〉旅西亜人立る所の十字お倒し、〈是よりさき、ろしや人いしゆゆ、えとろふへ七年在留し、十字お立て夷人へ法お教へ、夷人の中その仏お受け、其風俗お変ずる者有に至る、えとろふ島しやるしやむの夷人は、うしびと雲ものは髪も旅西亜の風となり、その仏おうけ、符呪お受るに至る、又夷人へ名お与へて、ほうなんせと改るものあり、〉同島かむいわつかおいに於て、木お立て標とす、翌年えとろふ島お新開し、旅西亜人授る処の仏お棄しめ、旅西亜人変ずる処の風俗お改て、本邦の風俗となす、