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蝦夷草紙
四附録
えとろふ島(○○○○○)之事 一えとろふ島は、くなしり島の隣島にて、彼島より渡り口西南の地、海辺に峨々たる峻山の下に、いといや、へれたるへといふ二け所、くなしり島に渡海の船、日和お伺う処也、是より北一里程にして、もよろといふ所に蝦夷村あり、此村の乙名おくてれるといふ、此乙名の稼場にて浜辺に古碇あり、三頭あり、頭の重さ七十貫目程也、〈◯中略〉之より北方には磯辺お副ひ漕ぎ、凡二十余里にしてあつさのほりといふ高山あり、〈◯中略〉此あつさのほりより、北大凡島中央にもしりのつけといふ所に、えとろふつたらといふ岩あり、あげ巻の形に似たり、此岩に因て当島おえとろふと名づく、昔おきくるみ、しやまいくるといふ二人の神とも謂つべき人、蝦夷北に渡りたるが、其人の太刀の環に提し緒の形に似たるとて、えとろふといへり、えとろは鼻、ふは緒、つたらは岩といふ義也、此二人は義経と弁慶の両人也といふ説あれども、いまだに詳なる事おしらず、是より僅此方に、しやなあといふ所に河あり、水勢漫々として、山奥壙地有て、其地お流れこヽに至ると見へたり、此処は鷲の羽の出る所にして、蝦夷地鷲羽出産最一の場所也、真羽、薄氷、粕尾の三品、共に比類なき良品の物多し、又しやなあより北方海浜に四五十里隔て、しよつ、ちきやという所あり、此処に蝦夷人食物とする土あり、色白く和らかにて餅のごとし、食用に達せんと思ふ時は、まづ水にひたし水飛して、土お去て煎るに、しやうふ糊のごとし、味ひ平淡にして毒なし、土人殊に賞玩する也、又此しよつ、ちきやより北方西最よりの隅に当り、海路凡十里にして、しやるしやむといふ所あり、此処にまうかあいのといふ乙名あり、此乙名の処に、旅斉亜国の人にて赤人と唱ふる者滞留して居たる処にて、彼人卒都婆のごとくなる柱お建て置たり、此柱に彼国の国字お録したり、庭前に建置て信仰し、朝暮に拝礼するといへり、此卒都婆に大説あり、書に載がたき一段なり、時お得て具に発語せんと思ふ所也、此所にいばぬしかといふ蝦夷人あり、此いばぬしかは赤人の言語お能習ひ、通詞おする也、依て赤人より名おつけてほおなんせといふ、此しやるしやむより僅北方にゆき、ひん子へつといふ所あり、此処に滝あり、〈◯中略〉蝦夷地第一の大滝也といへり、此所までは当島の西浦にて、海上も静なり、是より東浦に廻れば、実に荒島にて、波浪も高く、潮夕の流も早くして、少し風あれば通船もなり難く、此ひん子へつより東方凡十里程に、もしりはつけといふ処に焼山あり、此焼山の裾通、東南に向て掻き送り、一日の海路おへて、とうしるヽといふ所にいたれば、古碇一頭あり、是は寛文十二年壬子、勢州の舶志摩国お開帆して難風にあい、翌年七月、初て一国にいたるといへり、則此処也、天明丙午年〈◯六年〉まで一百一十五年お経たり、此説三国通覧にも載たり、三十日の旅行お経て、西南の地に至るといふ、援お以て島の広き事お考ふべし、此辺は海豹海鹿至て多し、〈◯中略〉 うるつぷ島(○○○○○)の事 一うるつぷ島は、一名猟虎島とも唱ふ也、海獣に猟虎といふ獣、比嶼の周廻の海中にある故に、猟虎島ともいひ、又うるつぷ島ともいふ也、うるつぷは魚にて、此島の周廻の海中に出産す、此魚形鱒のごとく、肉の色至て赤く、味ひ亦美也、扠此島の西浦に、もしりやといふ所有、予えとろふ島より渉海して此処に著船す、此所に海苔の名産有、其品日本若布のごとく、香味ともに至て美し、又海胆多くあり、猟虎是お好て食する也、同島にたぶけわたらといふ島あり、もしりやより北方に僅に隔たる所なり、此処に黄金の山色あり、其山の体お能糺し見るに、隙間(ひあい)とて金山の曼ありて、甚だよき宝山となるべき也、比海浜お北に過れば、せくつといふ所あり、海岸の巌頭より温泉湧出て、滝と成て直に海中に落る、予数日の旅行の間に浴せざれば、此温泉お浴せり、此せくつより磯辺お北方にゆき、西の海中に離れ、うつといふ岩島あり、此岩島至て険阻也、数十丈の巌頂に、異島郡集せり、えとひりか、ふれしやむちりといふ鳥など、産物の条に委し、此岩山の形甚だ険阻にして、風景眺望目お驚かすばかり也、扠又べうつの北にあたついといふ所有、此処に赤人の家宅五六戸あり、其造作穴居とも雲つべき体なり、此処小河にしゆるごまといふ異魚あり、国お隔れば、産物も又異形の魚鳥異類の物多し、また此あたついより北にゆき、おたれもいといふ所あり、此所はこの島の西北の隅にて、遥の沖に、西にはまかんるヽ島、北にはれぶんちりほい島、やんげちりほい島の三島みゆる也、又おたんもいより崎お廻りて、東北の沖におれむこといふ小島あり、是より遥の沖にやんけもしり島、おたほ島、れふんもしり島、かはるもしり島の四島あり、此外晴天なればしもしり島もみゆる、此島はえとろう島よりは大島なり、扠此おれむこより僅南にゆき、ちへやいむといふ所あり、此処は猟虎の職場にて、赤人此地お改名してしやばりんと号す、此処赤人の泊有、泊とは船の懸る処おいふ也、天明丙午年〈◯六年〉以前十け年に、赤人渉海せし時に、大津浪あり、其節大波涛に彼大船打揚られ、山の谷間に懸りたり、赤人ども引出さんとすれ共其手段なく、その儘大船は山に捨置たりといへり、予是お功覿したり、扠比海お赤人改名してればきんと称す、赤人仮住居の宅五六戸あり、又わになうより南に地続き遥に隔て、のびといふ所あり、都て比辺は猟虎多し、赤人改名してころしんと名付たり、援に名産多き島也、