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蝦夷実地検考録
松前 東は及部川より、西は総社堂町まで、北は山麓お限り、松前城下の幅員とす、寅向泊川枝け崎大松前小松前唐津内博知石生符お緯とし、伝次沢神明沢湯殿沢唐津内沢お経とす、然れども白神より立石野までの大湾澴の内は、一望眸中に在て、応接呼吸の続く所なれば、截て別区と為べからず、地名考に方言おあつないにて、おは有といふ意、まつは婦人、ないは渓沢也と説は、誰も思よるほどのことにて、考とするに足らず、或説に昔はまとまへと雲へり、松に非ずとすれど、まとはまつの通声にて、猶松なり、亦一説に、靺鞨の訛音なるべしとするは、殊に忌しき僻言也、按るにまつは松樹、まへは前なること論なし、蝦夷は松なき国といふ説もありて、地名は国のひらけし始よりあるなれば、松樹のことヽはなし難からめなど、あはめいふ者もあめれど、蝦夷には松なしとはいふべからず、凡闔国幹太(からふと)の奥までも、五葉松は殊に多く、南方には所々の山中二葉の松も少からず、決て後に移植たるものとすべからず、憶ふに松前は松の並樹など有し故の名なるべく、今外廓の塁上に喬松枝お垂れ、陰お覆ひ、青々の色お易ざるは、伊豆守慶広、慶長五年、丘阜お刪夷し、営砦お構成せし当初、其已前より有し嶺松お、其まヽ残し置たる遺像なるべし、凡山に据る城堡の制は、必従前所在の喬樹おこそ蔀蔽ともなさめ、新に矮木など植べきにあらず、故に今の松は、千載不抜の根幹也とはいふ也けり、前は国の表となる所には、いつも名づくる例也、抑松前の名は、いづれの時よりか書にも見へ、言にも伝しか詳ならねども、尚時若狭武田の末葉、太郎信広此国に渡り、五代伊豆守慶広、慶長四年、始て松前と称号お改しなれば、所こそ多けれ、松前は殊に名に顕れし故にこそしかいひしならめ、〈◯中略〉松前は南西の海澨、往古渡島の阜頭にて、津軽外け浜に近接の地なれば、津軽の蝦夷の航海来復も繁く、白神の蝦夷なども、多く此境に蔓衍棲居せしなるべし、且本邦も蝦夷も、上古国の開くる初は、西より起りしとみへ、海路も早く通ぜしなるべし、上国(かみのくに)の近郷は、却て優れる所有お以て、松前に先だちて開ぬ、松前は海角にて、大府お開べきの利なき故に、白雉の比、安倍紀氏飽田渟代より航海して、其地お広視し、遂に東お経略して、後方羊蹄府の挙も有しなるべし、文治中、源義経の航渡せしといふも、三厩より松前へ越て、直に東へ赴き、嘉吉中に、下国安東太の越しも、小泊より松前へ絶りて、東茂別に城し、其他渡党の人皆多は東に館し、蠣崎季繁は上国に塁す、享徳中、松前の始祖武田太郎信広は、南部大畑より〓お解たれど、松前に著ぬることは照然たり、然れども其始一年許は、甚窮約せしといふ伝もあるは、其地航海阜頭なれとも、誰も能く居館お営し土豪と雲べき人も居らざりしおしる、否ざれば仮令貨賄器用こそ欠乏の時にはありけめ、館主豪族など居るならば、いかで信広当頭主人と頼まざるべき、信広も決起して東征西伐お為し、終に上国に終老せるお思へば、松前の晩く開けしお知る、亀田八幡宮の神主藤山長門の家記に、蠣崎若狭守光広、上の国より相原周防守居城止へ移る、応永十五年雲々とあるは、相伝の誤にて、実に松前の創て開けしは、明応五年、相原周防守の子彦三郎季胤、村上河内守政善、始て松前お守護せるより、著姓の人滋に居る事と成ぬと見ゆ、此は下国定季が、其子山城守経季の放縦なるお以て誅せし其事より、経季に党し動乱お作さんとするものなど有により、季胤政善に命じて鎮撫せし一時の機策より起りし也、実に松前に豪姓の居お奠めしは、永正十一年三月、三代若狭守義広、上国より滋に移しお始とすべし、松前の系譜に、二代若狭守光広康正二年、三代若狭守義広文明十一年、四代若狭守季広永正四年、皆松前に誕すと記たり、康正二年は、始祖信広初て渡海せしより三年に当れば、松前に落魄せし間に生れたりともせん、文明十一年は、光広上国におり、永正四年も、義広上国に住ぬ、父は各上国に在て、其子松前に生るヽも如何なるべし、且松前旧事記に、永正十年、大館合戦、松前の守護相原季胤、村上政善自刃と書たれば、其頃までは、此二人大館に戍衛せし事明かなれば、いよ〳〵光広義広は、永正十年已前は、松前に在ざりし証とすべし、翌十一年三月十三日、義広来て松前お鎮せしは、二人戦死の後代りて大館に在しなるべし、義広松前の大館に居こと久しく、其孫伊豆守慶広に至り、慶長五年、福山に営お築きしより、累世裘業お嗣ぎ、雄藩たりしに、文化四年より文政四年までの間、松前蝦夷悉く官に収たまひぬるに、又復故し、今の伊豆守に至り、特旨お欽て新に金城お築き、万世不朽の基礎お固め、永く北地の藩屏たるは、しかしながら、官の御明断により、此盛挙は有し也、