[p.1320][p.1321]
蝦夷実地検考録
箱館(○○) 箱館、古名うしよむけもしりといふ、地名考にうしよろと同語とし、湾也と解は牽強なるべし、按に海潮受にて、うけおむけといふは通音也、方言もは又の義、しりは地角の義、もしりは俗語飛島といふが如し、抑此地往古は礬石の火山にて、煨燼したる処なれば、山中焼埆皆熏灼の痕みゆ、知内嶺の奥にも火山の痕残れり、恵山駒岳と必火脈お通ぜしなるべし、其大に焼出たる時より、海おも塡て地容一変して、其以来いよ〳〵壌土も拡まれるか、往古は蛋戸のみ住けらし、文安二年乙丑、亀田郷の領主河野加賀守政通、城お此地に築て移る、其時土お穿て匡筥お得たり、其中鉄器有しとぞ、箱館の名は是より創れり、河野は藤原氏従五位上尾張守某の胤といふ、〈河野の族は越智氏なるべきおこれは奈何なる故にて藤原なるか未詳ならず、〉政通初亀田郷お領し、後箱館に徙る、長禄元年丁丑五月、大に蝦夷と戦し人也、又加賀守盛幸といふ人、明応中、箱館に居り、後武田太郎信広に敗破られて麾下に属す、永正八年、加賀守の息弥次郎右衛門といふ人、蝦夷の乱に没し、永禄元亀の間、加賀守好通といふ人、蠣崎義広の舅となる、文禄の頃、蠣崎慶広箱館お破堕る、城跡は浄玄寺の東より公庁の前にかヽり、会所町に宣り、塹溝の蹟現に存せり、慶長年間、亀田の人民多く茲に遷れり、商船は昔近江越前より偶来れるのみ、上方船は百四五十年前、大坂道頓堀の橘屋某の船の来るお始とす、然れども猶落船の由お松前へ申すことなりき、後六七年過ての書に、亀田より箱館といふ湊廻船入込、繁昌の処也とみゆ、其逐年殷賑に到る事思知るべし、蛮船の初て港中に入しは、寛政五年、根室へ来し旅西亜人の、茲に入津せしは六月八日也、是より松前へ陸行せしめ、御目付石川将監、村上大学等応接したり、今は北国無双の都会となり、天下の船艦輻湊するのみならず、海外蛮船も貿易お求、商販お事とし、相競て入港するに到れり、