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北海道志
五地理
田野〈官林牧場〉 田甫お開墾する元禄年間に始る、其方法夏月茂草お剃し、中秋火お放ち、明年春鋤犂して白田と為す、之お荒起と謂ふ、地味肥沃、培養お用ひずして物熟す、五年の後、地力尽くれば即ち棄て他に移す、故に段別毎に増減ありと雲、古来其地稲米に適せずと為し、唯粟稗蕎麦大小豆等の雑穀及び菜菓お植ゆ、且松前氏の時、人民の収獲お縦にして、貢賦お課せず、寛政文化の間、幕府直轄するの時、上山藤山大川七重等の諸村皆墾地ありと雖も、畝歩零星亦税額なし、〈秋田、庄内、南部、津軽等より民お募て開く所なり、〉明治以降大に旧習お釐革し、規お設け、地お画して之お民に授く、是より畝歩得て算すべし、夫乃疆乃理は田お授るの方、徂湿徂畛は地お避くの務、故に戸口に次て田野お志す、 渡島国 田畝 寛政七年、文月村試田一段余、文化二年、箱館近郷田百四十町、文政五年、箱館近郷田二十一町九段二畝、安政元年、箱館近郷田六十四町四段、明治三年、亀田郡二百八十八町八段六畝二十八歩、上磯郡五十八町四段四畝十二歩、〈◯中略〉 白田 文化二年、箱館近郷二十町、文政五年、箱館近郷百五十八町八段二畝十五歩四分、安政元年、箱館近郷三十九町一段五畝余、蝦夷分三段余、明治三年、亀田郡六百八十五町六段十二歩七釐、上磯郡五十二町五段四畝五歩、〈◯中略〉 後志国 田畝 享保年間より粱お種へ以て粮食に充る者、西部の地に太櫓瀬棚島小牧寿都歌棄磯谷岩内古宇積丹美国古平祝津と曰ふ、段別詳ならず、〈◯中略〉 胆振国 田畝 安政年間虻田振内辺幕府官吏石橋某等新田お墾す、段別詳ならず、明治十年有珠郡五段六畝、〈◯中略〉 白田 安政年間虻田振内の辺土人墾する所の白田多し、段別詳ならず、〈◯下略〉 ◯按ずるに、石狩、天塩、北見、日高、十勝、釧路、根室、千島等の諸国の田数は、明治以後の調査なるお以て省略す、