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夷諺俗話

蝦夷地風俗之事 西蝦夷地すつといふ場所の内に、弁慶崎と雲あり、又其先いりやといふ場所の内に、来年の崎といふあり、是は弁慶蝦夷人に対し、来年来るべしと、約諾せし処故、援お来年崎と雲伝ふるよし、其外夷言にも、義経おしやまいくる、弁慶おおきくるみなどいふ事、今に其名あり、〈◯中略〉斯日本へ従伏なして二千年に近きといへども、未道ひらけず、髪お被り衣お単衣にして、あつしといふ木の皮にて織たるお著し、左衽になして笠鞋履お用ひず、みな裸跣なり、耳には環お穿て飾となし、身体最も色黒く、眉毛一条に連り、総身熊のごとく毛生ひたるあり、故に上古毛人国ともいひたるよし、其性質正直なるもあれ共、交易に馴たる蝦夷は偽謀の事あり、一体其性勇姦にして直ならず、女は皆唇と肘に入墨して文おなす、扠又文字の暦なき故、甲子記年お知る事なく、寒暖お以春秋お分ち、月の盈欠お見て朔望お知り、金銀の通用なし、古器刀剣お以宝とし、山野海河お猟し、群畜諸魚お獲りて食とし、屋室は隻四壁のみにて、夫も熊笹お累ね、或は葭茅等お以て是お囲ふ、家内お見れば、土間へあふすけ是は葭簀の事也、是お敷、其上にきなといふ物お敷、是は管苫の事也、囲炉裏と鍋計にて食用お足し、いろりの廻り甚むさくろしく、物お喰ても其跡お洗ふといふ事もなく、鍋の内お指にてなで廻しては口へ入れ、如斯して其儘にて差置、又何ぞ煮時は、やはり洗ひもせず、直に其鍋にて煮て食し、食物にも多く魚油おさす事にて、夫ゆへ家内もびた〳〵と滑り、臭き事たとへん様なし、湯浴は勿論、朝起出ても手水遣ふといふ事もなく、手拭も不持ゆへ、海辺より上りても、其濡たる儘にいろりの火に当り干す也、大小便おなしても手も洗はず、草村の中浜辺の岩間にひり散し、夜臥にも襖もなく、あつし壱枚著たる儘にて寝るなり、夜中外へ出て見れば、予〈◯串原正峯〉が旅宿運上屋前往還に、犬の寐たる様にて雨露にうたれ、土間に臥して居るもあり、誠に野鄙の極也、前文述る如く、日域へ帰伏なしてより以来二千年近く成事なれば、上国の風俗におし移るべき事なるに、多年お経ていまだ開けず、斯浅間鋪体なるは歎はしき事ならずや、