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正斎与古松軒書
爾後は契闊松竹之寿、愈御安栄御渡光之由、珍重不過之候、当春鴻書落手之処、発程間際至而紛雑、旅中より可及御報と存候処、日々繁冗無其儀、背本懐候次第に御座候、扠不佞去春松前御用被仰付、四月十五日江戸発程、五月十六日三馬屋渡海、同廿三日松前出立、箱館江罷越申候、兼而老人御編述之東游雑記相携、沿途之勝概、松前之風物比校いたし候所、過差無之、老人一過眼之地、烟霞之妙察、全く山水之奇骨お被得候事と、感心不啻候、夫より東蝦夷地通り、佐原よりえとも江渡海、〈凡七里〉此地は去辰巳両年、蛮舶〈いきりす〉著岸之処にて、海湾凡五六里、はくちようの沼もろらんなど紆回して、うすお経あぶたに至る、うすは山水猶勝麗にして、頑石之位置、崎嶼之錯曲、恰も盆山家園之如く、東夷地細景之第一なり、あぶたは平坦といへども、是よりおしやまんべの海岸、青石白巌遥に内浦岳大里島の眺望亦一絶なり、六月二日あぶた出立、ほろへつ江出、海浜砂漠しらおい、ゆうぶつ、むかわ、さる、にいかつぶ、しぶちやり、みついし、うらかわ、じやまにお経て、ほろいづみに出る、〈しらおいより凡八日路〉えりもといふは、海中へ凡三里ばかりも突出たる出崎にて、回船は箱館、えさしより、此えりもお見て乗り、東夷地之風土も此崎之前後にて一変すといふ、しやまによりほろいづみ、ひろう之間、嶮阻猶多く、巉巌絶壁突兀として、馬足不通、其間ちこしきるい、ともちくしほの嶮、蟻附蟹歩始て魚腹お免れ、石頭岸牙お躍歩し、飛泉お登り、水中お行て、始てひろう江出、是より又海浜砂漠之地、浪烟衣お濡し、砂石面お打、おほつちい、とうぶい、しやくべつ、しらぬか、くすりこんぶむい、せんぼしお経て、海お渡ること三里、あつけしに至る、〈海湾道ありといへども、嶮阻故海お渡るなり、〉此地は湊泊猶よろしく、海面に大黒島といふあり、廻船はえりも崎より此島お見て乗るといふ、入江は凡三里余、奥に湖水あり、広凡二三里、湖中小嶼数十、皆牡蠣之凝りて島となるもの、奇勝不可言、是うす以来大景之第一なり、あつけしは古来夷中之巨擘と唱へ、夷俗も殊に正しく、人物耆不少候、夷俗之事は、東遊雑記に詳出候得ば、不贅候、作去奥地之方は、夷人之宝と唱候雑器も多く、人物も逞しく、うらかわより隻夷人大低眉毛両分、穀食故にも候歟、えりもより奥は眉毛相連りて鬢に至る、尽く魚食故にも候歟、其風俗其語頗相違にて、奥蝦夷之方は一切作物お不存、口蝦夷之方は粟稗大小豆作附相貯へ、粟おもんじろ、稗おびやばと唱へ、昔義経此土へ来り給いし時、播種お教へられ候よし申伝へ、已にさるむかわに、義経之故居とて、夷人幣束お立る処有之候、六月廿三日、あつけし出立、びばせ、おつけしお経て、子もろに至る、此地はきいたつふ領と唱へ、北はくなじり島、東はのつかまつふの出崎、西はめなし〈夷言に東の方といふ事〉にしべつよりしれとこ迄凡七八日路、子もろは去子年旅西亜人伊勢之漂民お送り、渡来候地にて、今尚其故跡残り有之候、夫より海上凡十七八里、くなじり島、此島周廻百里に不過といへども、名山奇石実に天造之妙、先せヽきといへるに、海中より温泉沸騰し、くさりなといふは自然方石、幅凡六七寸、長凡一丈半、或一丈ほどなるが、累々と相畳みて、鎧の草摺のごとく、其傍に冑形之石あり、又其傍上に方石長二三尺なるに、井幹(いげた)お組し凡六七あり、平地は方石の小口、波浪に磨して亀甲のごとく、奇々妙々不可言、夷人は昔義経此地へ甲冑お置給ひしが、化して石となり、其井幹は熊お商なふ処と雲伝ふ、不佞は孔明魚腹浦八陣石のごとく、旌旗お建給ひしか、又六花招之隊俉お被試候遺跡かとも存候、夫よりいえんしゆま紫黒之角石、其上頭は種々之像おなし候が、二町ばかりがほど屏風の如くに立並び、海水と相映じて如画、おたちつふといふ砂山は、夏中穿こと凡一二尺なれば、砂下皆々雪にて、是も義経の船化して砂となる由言伝ふ、ちやちやすふりといふは、高三四里分、高山絶頂に湖あり、湖中に高山秀抜して雲際に聳へ、湖之水島の西へ流れて爆布となるお、しよふけべといふ、東へ流れて大川となるおおん子べつといふ、此山めなしよりえとろ迄お一望して、実に海内第一之神山ともいふべきか、此外るようべつの紋巌、ぱうちの沸湯の如き奇絶無双、故に不佞くなじり島の八景お作り、追而鏤梓之積りに候、此島霧謁深く、時として隻尺不可弁ことも数日有之、魚類は火しく、鱒は海面凡一里余も充満、海岸は舟底に当り、櫓械も支候程にて、時々手捕にもいたし、一網凡二三千本は入申候、めなしの鮭も同様に候、此等之事余りに珍敷、曾参が口お不仮ば、信お世人に取に不可足かと独笑いたし候、又可喜は此国いまだ修験浮屠不入がゆえに、高山大川とも、皆神代混純之儘にて、至て清浄に、山奥の夷人は、白鬚髪木皮衣、実に仙家と同じく、大に俗気お解脱候こそ幸甚と存候、扠同島あといやと申所は、えとろふ島へ之渡り口にて、松前より凡三百里、極暑は四十五度に有之候、順風相待、七月廿三日、一葉之夷舟無恙渡海いたし候、然るに此渡りは一望才に六七里に不足候得共、荒夕之強は、三馬屋之夕に二倍も可致、逆浪の面に沸騰、凡一丈五六尺も水底へ奄り可申、十五六間お隔候友舟之帆も互に不相見程にて、猶草根木皮お以綴合候夷舟にて掻渡り、事馴れ候夷人も毎々溺没之患有之由にて、何れも呪符お唱へ、必死に摺掻渡海いたし候、著岸之比は、夕風にて半面鬚髪皆如雪になり申候、是迄は荒夕の強に恐れ候が故に、日本人更に渡海無之、夷人も年に一度往来のみにて、開避以来、此えとろふ島江日本人渡海候は不佞お合て僅四度に不過候、夫が故に彼島の夷人も、日本人お珍敷覚へ、見物に出候程に候、不佞も既に溺没之覚悟窮候事も度々有之、召具之者顔色皆青黒如鬼、或は帯お解き、或は衣お薄して游揚お謀り候得共、不佞固より水練無之、此荒夕一度覆舟候得者、とても無生理、たとへ死して骸お旅西亜外国に暴し候とも、我邦之香お残し可申と、著籠お著して渡海いたし候、扠えとろふ島は、日本人一切渡海不致候故か、山海の様子も事変り、森然と物淋しく、其人物は夜国之人とも覚敷ごとくにて、大に口蝦夷と異候、猶あつしも無之、草お以衣お製し、又は犬熊皮鷲羽お著し候、鯨も多く、頭に牡蠣附候程之大なるが游ぎ戯れ候に、夷舟にて其背へ乗かけ、毒箭お以射申候、不佞も鑓お以突可申と致候程之事に候、魚類は火敷、試に編お投れば、一餌凡八九尾お釣り、鱈あぶらご、かさごの類、手に応じて釣り得申候、夫より八月廿六日、めなし領のつけと申所へ帰舟、九月十三日あつけし江出、十一二月之内さる、むかわしゆつ〈こうあつより凡八里余江〉罷越、義経之故蹟お訪ひ候に、さるみ川上はいびらといふは、昔判官此山上にはいといへる魚吻お立て、〈則かぢきとおし〉居お構へ給ひし処にて、世に判官、八面大王の女に通ぜられしに、大王怒て逐ければ、長刀お抜て櫂となし逃去給ふ、今の車櫂は、其遺風也と雲伝ふるは此地にて、夫故か此処の夷人は、風俗家居も格別に宜しく、はいだるとて夷中に称せられ候由、又同所より凡十里余、むかわの川上にきろろいといへる山上に、判官の来て魚お釣、幣お建給ひし処とて、今尚其故蹟あり、又古き甲冑所蔵之夷もあり、此川上江凡十日路余も蹈入、是迄人跡希なる処にて、むかわのきろろい山上は、不佞始て登り候外、夷人も参不申由申事に候、夫より山中川上雪中氷上跋渉いたし候処、極寒にて大川皆氷り、歩渡に成、大水も寒気にて、立ながら凍れ割れ、夜中夜著の背も、寝息にて霜凝り、炉辺に差置候茶碗に盛候酒も、暁は凍り固り如丸、風立候得ば鬚髪目睫皆氷り、如雪に成也、夫より臘月廿七日えともに越年、正月八日うす江移り申候、 一当正月夷地うすに罷在、雪解氷釈お待て、直ちに奥蝦夷地へ進み、くなしり島えとろふ島よりうるつふ島へ渡海、夫より赤人之島々ちり、ほい、しもしり島辺へも可成だけ渡海之積りに候処、一先帰府候様、東都より之召状到来候に付、早速うす出立之処、いまだ山中深雪にて、道路艱難、夷地越年に候得者、当未之暦も不存、正月之大小も不弁、所謂山中無暦日の類にて、又南部松前の私大も謂れあるごとく存当り、福崎へ至り、始て津軽板之柱暦お見て、今年之大小お知り、二月二日白神崎にて大風雪、併同日無恙松前著いたし、同九日三馬屋へ渡海之処、津軽地いまだ深雪、一望皓白、隻人跡お見候のみにて、人足は皆猿羚羊の皮お被り、駕籠はそりに載せて引申候、南部野辺地辺は、軒の上まで雪に埋れ、戸口は穴の如くに成居申候、同廿二日仙台著之処、急ぎ帰府候様にとの事にて、九十五里お五日路に、同廿六日江戸安著いたし候、然処旧臘より蝦夷国境御取締御用被仰出、東蝦夷地うらかつよりしれとこ迄、其外島々迄上地に相成、御役人数人被差遣候折柄、三月十五日、不佞儀不存寄転役被仰付、是全く去年以来海外之勤労お被賞候御事にて、同十七日為御暇金二枚、時服二拝領、同十九日御朱印拝受、東都在宅僅廿三日にて、同廿日又々蝦夷地へ発足いたし、四月廿四日松前渡海、五月九日御用地うらかわ江入、六月十二日子もろよりくなしり江渡り、同十九日あといや江著いたし候、何方も昨年順覧之地、山川再会之思おなし、面白覚へ申候、併くなしり島半途よりは、夷人も住居無之、野宿のみにて、往来風雨飢寒之患も不少候得共、志士溝壑お不忘之一助お独笑罷在候、又々夷地に越年、来早春えとろふよりうるつふ江相進候筈に候、〈◯中略〉先は起居承度、傍任旧契、あといや風待之丸小屋之内、草々如此に候、頓首頓首、 六月廿一日〈寛政十一未年也同十二月晦日備中著〉 守重 古松軒老人