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北蝦夷地部

北蝦夷地〈古称からふと島〉 此島は蝦夷島の極北そうや〈地名〉の北十三里の海お隔て、北極地お出る事、凡四十六度より五十一度の間に在りて、其地南北に長く、〈凡二百余里〉東西に短し、〈凡十五六里より狭き処は七八里にせまる〉其周廻凡五百余里、南は蝦夷島に対し、東は大洋おうけ、西北は東撻満州の地方に臨める一大島なり、其人物蝦夷島の如き者は島の三分にして、その一に居し、其他は悉くおろつこ、すめれんくると称せる異俗の夷是に居す、往時松前家島お撫するの時、明和年間家臣和田某なる者おして、此島の中東西僅に五十余里の地理お観せしめ、終にしらぬし〈地名〉くしゆんこたん〈地名〉の両処に小府お設け、島夷お撫し、其産物お交易せしに、寛政十戊午年夏五月、信濃守松平忠明命お奉じて夷島お撿するの時に当て、従夷高橋一貫中村意積なる者二人おして、此島東西の地理お窺しむといへども、其従僅に百里計にして帰り来りぬ、其地素より不毛にして、居夷亦多からず、径路ありといへども、大低蓁棘足お傷り、烟霧眼お鎖し、是に加ふるに、人居お絶つの間五十里百里にいたる者あり、故に其後奥地の地理お窺ふ者なかりしかば、或は孤島と称し、又は満州地域の岬と称して、其説紛々たりしに、文化三年寅年、夷島挙て官に上入し、松前に鎮台お置て島夷お教育せしめらる、同辰年、松田伝十郎、間宮林蔵なる者おして、此島の奥地お窺しむといへ共、猶其極界おきわむるに及ばずして帰来りしに、同年秋再び間宮林蔵一人おして其奥地に至らしむ、所謂おろつこ、すめれんくるの地お経て、終に此島の北界お窮め、海お越へて東撻に入、其仮府徳楞哩名と称る処に至り、清国の官吏に接して島名お問ひ、其作事所業お閲して、冬十一月、松前府に帰り到るといふ、