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蝦夷草紙
五附録
からふと島の事 一松前所在島の西蝦夷地そうやといふ処有、此そうやお出帆し、海上十里お渡海して、からふと島の内しらぬしといふ所に至る、此しらぬしより西に乗り、同島の内なよしといふ所に至る、此処の沖中にとヽしまといふ島あり、此島からふと島と僅に海上六七里お隔つといへり、又なよしより西に磯部伝ひに乗りて、おほとやりといふ処に至る、此処は左右に山崎の峡有て、風波も凌ぎ安き所にて、涯端まで深くして、港とも謂べき処也、又此処おほとまり、西に磯辺伝ひに乗りなよろうといふ所あり、此処は涯遠浅に浜辺砂地にて、丘陵は平かなり、此所に大河あり、蝦夷舶に乗り、河上に遡る事数日の舟路也といふ、此辺の地中渓間広き事と見へたり、此河の海へ落口に、大船の泊にも宜しかるべし、同島しらぬしより、此処まで海上掻き漕送り、凡三十日程の舟路なり、其道法三百里に及ぶべし、此なよろうより一日路西に乗、くすりないといふ所あり、此処に河あり、河上へ一日路のりて大なる池有、毎年冬に至れば堅氷はりて陸地のごとく、此期お候ひ、堅氷の上お渡り、山お数峯お打越し、同島東北の地、たらいかとふ所に到るといふ、是近道故也、此くすりないより西北にのりおつちんといふ所に至る、此処蝦夷土人も多く、山丹土人も渡海し、此処に来りて滞留するといふ、なよろうより此おつちんまで、舟路凡十日程、海上凡一百余里なり、此処より西北に一日路の乗舟にて、なつかうといふ所あり、此所は山丹国への渡海場にて、海上凡十里お隔つ、此瀬戸冬中に至れば、堅氷はりて陸地のごとし、此期に至れば、犬に橇お牽せて通行する也、しらぬしより此辺までお西からふとといふ、又しらぬしより東はうるといふ処に大河あり、是より東北にのしかろないといふ所あり、此処にも大河有、此河上に池有て、蝦夷舟にて土人渡海して運送お達すといへり、此のしかろないの東北にしれとこといふ処あり、此処海岸より沖の方へ出たる山崎有、しらぬし在のとろ辺より此辺まで、蝦夷土人多く徘徊し、産業に力お尽すといへり、又同島西北の地たらいかといふ所は、西北第一の繁昌の所にて、是より山奥におくかたといふ所あり、此処に蝦夷土人多く住居たる大村あり、蝦夷地に希なる山中に村民あるは、日請よく、土産能土地よき所としられたり、仍而通路の土人も少々故に、産物も出すといへり、此辺お北からふとといふ、扠又此島の風土は、松前所在島の気候に等しき地也といへり、北極土地四十六度より四十八九度に至る也、土人の産業獲物は、そうやに近きはそうやへ運送し、山丹にちかきは山丹に運送して交易するに、風俗も山丹に交易する土人は、山丹風俗に移り、そうやへ交易する土人は、日本蝦夷土人のまヽ也といへり、此土地の風俗に、家毎に犬お数多飼置、夏中は舟の綱手お牽せ、冬中は橇おひかせ、犬おつかふ事牛馬のごとくす、冬雪中にいたり漁猟も不足して、粮尽れば、其飼置たる犬お第一の食用に達すると也、此島の広き事、松前在所島より勝れたる大嶼なり、日本国より遥に大なり、松前所在島と、此からふと両島にては、凡日本国三増倍に近かるべし、〈◯中略〉 日本人からふと島に漂著の事 松前家旧記、漂流船の吟味留書お視るに、摂州西宮の船頭徳五郎といふもの、難風にあひ漂流して、からふと島に漂著す、時に宝暦十二年六月廿一日也、船頭徳五郎いづくともしらざれば、たヾ忘然として昊天お望むのみ、数日滞留の内、鳥の翔肖お視るに、鴨とおぼしき鳥の、辰巳の方位お指て翔びゆくお見て、彼鳥は日本に徘徊する鳥也、毎年秋には集るなれば、辰巳の方位に日本あるべしといひ、夫より十八日お経て人里あり、此時九月十八日也、此処は蝦夷地しらぬれといふ村也、此節既に雪ふりたりと見へたり、予〈◯徳内常矩〉窃に考ふるに、からふと島の内たらいかとおつちんとの間に漂著せると思はるヽ也、此等お察し日本の舶師の未熟お推量すべし、猶島の広太なる事お思ふべし、扠又天明丙午年夏、大石逸平といふ者、からふと島の地方広狭遠近、及諸産及人物等の撿査の為に渡海せり、浜辺伝ひに段々と巡撿するに、なよろ村に至る所の乙名やえんころあいといふ、此者の父の名はやうちうていといひし、死去して忰やえんころあいの乙名おする也、父のやうちうていは山丹国に渉海し、又松前所在島西蝦夷地そうや村に渉海し、交易お博くせしもの也しが、先年山丹国に渉海せし時に、満州の官人来居り、やうちうていといふ名お授けたりといへり、其官人有三身の竜お織たる官服お著したる人也といへり、安永七戊戌年、松前家臣工藤清左衛門上乗役にてそうやに往し時に、彼やうちうてい交易の為そうや村に来り居たる故、工藤清左衛門此蝦夷人の名お貰ひたる事お尋るに、楷書に楊忠貞と書たる唐紙の一軸お出したり、清左衛門此始末お見て、山丹からふと両国の精しきに依て、山丹国の地図お書記とはせければ、大小島都て六箇所お画したり、 いちや ほつとん すむく たむる はあとめ すちやとしり 以上六島なり、所在の体は詳ならずといへども、猶識者の比校おまつ、又蝦夷土人山田久左衛門といふ通詞そうやにゆきたるとき、からふと島の土人よりもらひたる墨跡の一幅お、予精しく聞に、其書法日本の三社の詑に似たりといふ、大字と小字とに書記せし物にて、大字は楷書にて、小字は変字体にて、上と中と下とに三段に朱印お居たる物也といへり、予推量するに、朝鮮国の諺文ならんとおもはるヽ也、満州山丹にも諺文お用ゆるといへり、日本国の伊呂波の様なるものにて、仮名也、