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中山聘使略
国号 琉求〈隋書〉 流鬼(りうき)、〈新唐書〉是流求の下音の約りたるなるべし、瑠求、〈元史〉瑠球、〈奥志〉留仇〈続文章正宗〉留求、〈性霊集〉流梂、〈三善清行が智証大師の伝〉流虬(りうきう)、〈中山世鑑〉琉球〈同上〉明の洪武琉球と改むといへり、しかれ共宇治大納言の今昔物語に、仁寿三年、宋の商人良暉が琉球へ漂流の事お載て、琉球の名あれば、唐宋よりありし名と見えたり、中山(ちうざん)むかし琉球分れて三つとなり、中山、山南、山北といふ、各王あり、其後中山王南北お一統したれば、中山の名は止むべきなれ共、旧によりて今に中山といふなり、清より冊封の詔書にも、なお琉球国中山王といふ文あり、掖玖、〈日本紀〉掖玖の唐音うえきーなり、今薩音にて琉球おりゆきーといへば、掖玖も琉球の転音なり、夜句、〈同上〉夷邪久、〈隋書〉此は隋の時夷邪久といひしにあらず、煬帝二年、朱寛海に入て異俗お求る時琉球に至り、撫すれども従がわず、其布甲お取て返る、時に日本の使是お見て、此は夷邪人の用る処也といひしお聞て書したるにて、隋の時彼方にて元より夷邪久といひたるにはあらず、彝邪久、〈続弘簡録〉うるまのしま、〈狭衣〉言葉の聞しらぬお、うるまのしま人よといへるなり、琉球おさしていふにはあらず、さるお下紐と雲解に、うるまは琉球なりとあり、依て今世の人、隻一筋に琉球の事と思へり、公任卿の集に、しらぎのうるまのしま人とあれば、新羅に属せし島とみえたり、鬼島、〈保元平治物語〉おきなはしまの下略なり、屋其惹、〈土俗自称〉おきなとは沖縄の下略にて、其国の形ち細く長く、縄の如く海中に浮べりと雲意にて、沖縄島也と先輩いへり、悪鬼納、〈同上〉於伎夜、〈同上〉宇伎夜、〈同上〉共におきなの転也、うとお音通ず、