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麑藩名勝考

沖縄島(○○○)〈即中山国也、又作悪鬼納島、中山方言於喜耶、又曰宇喜耶、中山伝信録作屋其惹、琉球国誌略雲、按屋其惹、徐保光録謂其旧土名非也、細考之、乃土音如此、令之作書、則仍是琉球両字耳とぞ、按に、屋其惹は即沖縄、其土音縄お呼ことやんの如し、凱屋其惹の土音琉球ならん哉、周皇国志略深く考ずして、妄に徐保光の説お駁、猶杜撰甚し、〉音海字海巻之一附録夷語音釈人物門曰、琉球人、〈倭急拏必周〉日本人、〈亜馬吐必周〉琉球国王、〈倭急拏傲那〉今按に、是琉球人より聞たる所お取りしなるべし、其故は、凡琉球本邦人お称して養徳知宇といひ、自国人おさして倭急耶知宇といふ也、〈必周の周、疑は図の誤字、又傲那の下、志の一字お脱する、傲那志は尊称なり、琉球方言沖縄御主なり、 国志略加那志に作る、従べし、凡琉球国語載〉〈て中山伝信録に在り、可見皆我東方語音耳、其繁沓おもて援に復記さず、〉南島志曰、周廻七十四里、〈是拠、此間里数而言、凡六尺為間、六十間為町、三十六町為里、後皆効此、〉南去本藩麑府二百九十五里半、〈至北運天長浜三百八十里〉間切二十七、海港二所、村落数百、 旧説雲、沖縄島者、即沖之島といふ事なり、日本紀火々出見御歌に、沖津鳥鳧著島と詠じ給ひしより出たり、縄は之の音の転ぜしなり、今按、縄今の那覇是耳、沖といひ縄といふ、本是両地の名、合而沖縄といふに似たり、 一説雲、倭急耶とは、沖掖玖の略言なり、即古之所謂掖玖にして、而後今の馭謨郡益救に分て沖といふなり、今按、沖之島転じて沖縄といひ、沖縄方言沖屋といふ、而其倭奴のごとき、又沖之の略にして、国史以て掖玖と雲、即南島志所謂、其路所由と、是今の屋久島、南島の中、此方地に密跡す、当時南島地名未詳、其端島の名おもて各島お混じ称する耳、於是流求おもて沖屋久といひしに似たり、然共其拠る所未審なることお考がたし、