[p.1358][p.1359][p.1360]
中山聘使略
通信 貢使 琉球の我国に通信する事は、いとも久しかりけん、神代巻に、天孫彦火火出見尊海宮に趣かせ給ひ、海神豊玉彦の女豊玉姫お娶り、海宮に留りまします事お載す、又玉依姫鵜草葺不合尊の皇妃に海宮より立せ給ふとあるお、海宮とは当時琉球おさして雲へりといふ諸家の説あり、此は正しく史策に載ざれば、億断に出たる説なれど、私に思ふに、信に左もあるべしと覚えぬ、其故は、日向大隅以南諸島多しといへ共、君臣礼節の備りたるは琉球に若べからず、今雍熙の淳風四達し、遠く島嶼に及び、頑民皇化に浴といへども、琉球以外の諸島は、こと〴〵く窮境仄陋の夷蛮にして、君長ある事おしらず、況や太古に在りては、其賤劣愚旅推して測るべし、天孫何ぞ三年の久しきに堪させ給ふべき、其上二代の皇妃に立せ給ふ程の、端正荘麗の女子のおはすべき共覚えず、是一の証也、今琉球の崇祠多き中に、彦火々出見、葺不合の二尊お崇祀し、及び豊玉彦、豊玉姫、玉依姫おも祀る事お聞けり、又我国の古語、往々彼国に残れるが中に、豊といひ玉といふ事いと多し、凡そ彼国の事情雲為、太だ我に近くして、和歌およみ得ものまヽ多し、此お二の証とす、文字は応神帝十六年に渡り初め、彼国にも中古俊天以後より始ると見えたり、しかれば天孫と称し奉る事も、応神以後より称し奉る事とはしられたれど、彼も亦天孫氏といへば、我天孫彼国に留らせ給ふ中に、皇胤お残して帰らせ給ひ、さて其皇胤彼の開避の君とならせ給ふも亦しるべからず、此お三の証とす、京都将軍の末、政道弛て西国沿海の地、無頼の士私に船槎お出し、兵器お携へ、琉球台湾、安南、呂宋、閩広の間お鑯し劫し、貲財お奪ひ取る事あり、明に此お倭寇と雲て大に畏る、その劫すもの詞に、竜宮城へ至り宝お得たりとなんいひしと、今も其地にて語り伝へける、是竜宮域とは、泛く海島おいひし事なれ共、日向大隈よりして、諸島つらなり、甚至り易は琉球なれば、此お四の証とす、琉球の衣冠は、明の制お受て其俗変といへども、男子の簪お挿は、其国固有の風なるべし、国王は竜頭の簪お用ふといへり、今国俗の海宮王の姿お描に、竜冠お戴く形お作る、画工元より本基ありて図するにあらねば、是徴とするに足らざれ共、暗に其同軌に出るお強て五の証とす、此等お合せ考ふるに、海宮は琉球たる事決定して知ぬべし、されば我と琉球とは、尊卑等殊也といへども、相隣て唇歯とやいわん、肝胆とやいわん、此より後、続て貢使の往来ありつべけれど、考ふる所なし、