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国朝旧章録

琉球国之事略 此国の事、異朝の諸書に見へし処は、此国古よりの事は詳ならず、隋の煬帝の時、朱寛と雲者おして異俗お訪求られしに、始て此国に至、其詞通ぜざりしかば、一人お取て帰る、其後に師して再び其国に到らしめて、男女五百人お取て帰る、是此国の名、異朝の書に見へし始也、其後唐宋の時、中国に通ぜず、大元の時使して招かれしか共来らず、大明の代に及、大祖の洪武の初に貢使おまいらす、其国三つに分れて、中山、山南、山北の三王有、其後封爵お請しかば、中山山南の二王に鍍金の銀印お賜たり、鍍金とは金おやきつくる事也、此時三王互に争ひ戦しかば、天子其中に和らげ給ひ、山北にも印、并文〓等お賜、〈中山山南封ぜられしは、洪武十五年の事、山北お封ぜられしは、同十六年の事也、本朝後円融院永徳二年三年、公方は鹿苑院殿、(足利義満)の御時に当れり、〉同廿五年中山王察度〈王の名也、姓は尚と雲、〉其子姪并陪臣の子弟お遣して国学に入、此国昔隋元等の代に攻れども来らず、招けども至らず、然るに大明の代初に、自ら来り貢して其国の君臣子弟おして学び、中国に随ひしが、天子其忠順の志お悦び給事大方ならず、〈此故に外国にて此国程恩寵等きは無りき、閩人のよし岳お乗もの三十六性お給りて、年毎に往来すべき便となさる、察度が曾孫王巴志其位お嗣し時より、彼国王代お継し時に、必中国の天子使お其国に遣して冊封せらるゝ例始れり、是長き彼国の例也、〉巴志が孫王思達景泰の始に代お継て、程も無く山南山北お討亡して、其国お并せたり、〈是より硫球国王お中山と雲也、景泰は大明第五代英宗の年号にて、本朝後花園の宝徳の頃、公方は東山義政の時也、此国より始て通ぜしも此時也、後に見ゆ、〉是よりして三年に二度中国に進貢する事例は始れり、〈今も此例の如く也と雲〉王思連が六代の孫、王永が代に当て、日本関白の秀吉の御事、此時高麗陣の頃也、為に其国乱るヽ、王永程なく卒て、其子王寧代お継、万暦三十一年、其国に使お給て冊封有、〈万暦は大明十三王神宗の年号、其三十一年は、本朝後陽成院慶長八年、神祖征夷大将軍に被任し年也、〉其使帰奏して曰、琉球必倭の為に困めらるべし、日本の人千計、利刃お挟て其市に出入せりと申き、程なく同三十七年、王寧薩州の為に捉はれ行、同四十年、王寧使して進貢して、帰国の事お申、又日本の為に市お通ぜん事お望給ふ、〈万暦三十七年は、本朝慶長十四年也、此事五月島津彼国王お禽にして来り、止る事三年にして是お帰す、慶長十七年、本朝の為に互市の事お、大明福建は軍門に申せし事有き、〉右異朝諸書に見へし処也、是より後の事しるせし物考へず、此国の事本朝の書に見へし処、是も古の事不詳、五十五代文徳天皇仁寿三年、僧円珍〈智証大師〉唐国に趣かるヽ時、北風にさそはれて琉球に至りしと雲事、元亨釈書に見へたり、是本朝にして、彼国の名聞えし始にて、其後聞ゆる事にて、東山の公方義政の頃、宝徳三年七月、琉球の使来れり、〈是則彼国にて山南山北お并せし、中山、王思連が時也、公方より書お贈られて其礼に答へられき、其書は仮名字お用ひて、りうきうこくのよのぬしへと記されたり、〉是より後其国人常に来りて、兵庫の湊にて商物などしたり、太閤秀吉の代と成て、使参らせて、天下の事しり給ふ事お賀す、程なく朝鮮の事起て、太閤も失せ玉ひ、太閤へ使おまいらせしは、応永の時成べし、〈此年号不審、書誤なるべし、〉御当家の始、島津の為に討れて、終に其属国のごとくに成たる也、右本朝諸記に見へし処也、世には彼国は鎮西八郎為朝の末葉也、されば今も其国に為朝の遺跡共多しと雲也、