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琉球入貢紀略
薩州太守島津氏琉球お征伐す 琉球国は、嘉吉年間足利義教の命ありてよりこのかた、世々薩州に附庸の国たるお、天正のころ、群雄割拠の時にあたりて、琉球の往来も姑く絶えたりければ、薩州の太守島津家久より、もとの如く貢使あるべきよしお、再三使おもていひつかはしけれども、彼国の三司官謝那といふ者、窃に明人と事お議りて、待遇ことさらに無礼なりしかば、已むことお得ずして、慶長十四年の春、台命お蒙、軍お起し、樺山権左衛門久高お総大将とし、平田太郎左衛門益宗お副将とし、竜雲和尚お軍師とし、七島郡司お按内として、その勢都合三千余人、戦船百余艘お出して、二月廿一日、纜お解きて、琉球国へ発向せしむ、樺山久高総勢お引卒して、はじめ大島に著岸し、また徳島に赴きしに、島人これお防もの凡千人ばかりなり、この戦ひに首お獲ること三百余級、余はみな降人にぞ出にける、四月朔日、那覇の港に至らんと、かのところに赴くに、港口には逆茂木乱杭おかまへ、水中に鉄の鎖おはり、是に船のかヽりなば、上より眼の下に見おろして、射とるべき手だておかまへ、その外の島々へも、用意おごそかにしてぞ待かけたる、これによりて他の港より攻入りて、三日の間せめ戦ひ、手負討死少なからずといへども、遂に進みて首里に攻入り、王城お囲みて、急にもみにもんで攻破らんとす、琉球王及び三司官等、薩州勢の強大にして、当るべからざるに避易し、みな出て降お乞ひけるによりて、軍の勝利お得て、琉球忽に平均せしよしお、速に駿府へ言上ありしかば、甚だ称美せさせたまひ、琉球お永く薩州の附庸とぞせられける、かくて五月廿一日に、中山王尚寧及び諸王子お禽にして、薩州の軍士凱陣せり、十五年八月、薩州の太守中山王おともなひ、駿府に来りて登城す、中山王段子百端猩々皮十二尋、太平布二百匹、白銀一万両、大刀一腰お献上す、それより江戸に到りて、将軍家に謁しけるに、米一千俵お下したまふ、さてその年帰国ありて、翌十六年、中山王琉球に帰ることお得たり、これによりて十二月十五日、琉球人駿府へ帰国御礼のために参りて、薬種及び方物くさ〴〵お貢献す、さて中山王尚寧降服してより、永く我邦の正朔お奉じ、聘礼お修すべきよしの誓ひおなしてけり、〈系図、旧伝集、政事録、南浦文集等によりて記す、〉これ今の入貢の始めなり、この後貢使かつて闕ることなし、