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琉球入貢紀略
琉球使の来れる 琉球は、掖玖とともに、推古天皇以前より入貢しけんが、はやく朝貢怠りて来らざりしなるべし、かくてその国と往来なければ、たま〳〵記載に見えたるも、みな懸聞億度のみにて、たしかなることなきは、そのゆえなりとおもはる、その国もまたはるかの島国にて、いづれの国の附庸にもあらず、通信もせざりしが、明の洪武年間、琉球は察度王の時にあたりて、冊封とて唐土より中山王に封ぜられて、彼国へも往来して、制度文物すべてかの国にならひてぞありける、明の宣徳七年に、宣宗内官柴山といふ臣に命じて、勅書お齎らしめ琉球につかはし、中山王より人おして、我邦に通信せしむ、この宣徳七年は、我邦の永享四年にあたれり、これによりて考ふるに、上古よりはやく往来絶えて、後明宣宗のために我邦へ使せしは、はるかに年お歴て、再び我邦へ琉球使の来れる始めなるべし、これより後も、明の正統元年、英宗琉球の貢使伍是堅おして回勅お齎らし、日本国王源義教に諭すといひ、〈これ永享八年のことなり〉嘉靖三年、琉球の長吏金良の詞に、これより先に正議大夫鄭縄といふものおして、日本国王に転諭す、〈これ大永四年のことなり、中山伝信録、琉球国志略に見えたり、〉といへることあれば、明より我邦へ書お贈るに、琉球使に命ぜしこともありしとぞおもはるヽなり、