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国朝旧章録

琉球国之事略 東山殿の頃より、彼国には我国の仮名字お用ひしと見へ、又其国の人共、我国の倭歌お能するもの少からず、 琉球人の和歌いくらも見へたり、能よめる者有、 山川等の名も人の名も、皆々我国の詞なるも多く、殊に我国の神々お祭れる故蹟、いくらも世に聞えたり、されば彼国の始祖、我国の人たりし事は一定也、但為朝の後と申は如何有べき、すべて彼国の事共、詳ならぬ事ども多し、可々翁私曰、琉球は其人品柔和にして、名髪に油お塗、容貌我朝の人よりも麗く、最弱国の風俗也、伎芸お嗜む国にて、中にも棊局の術お善くす、前々我国〈江〉来聘の度毎に、彼国の棋手に長ずるもの、其使に伴来て、我国の棋家に便りて、江都の殿中に於て相対して手譚す、其勝劣お試たる上にて、我国の妙手より或は先んお著し、又は二子お著するの許状お授く、〈所謂碁に先ん二つ置の事也〉夫棋局の遊は、其先中華に始りて、伎芸に於る最久し、然るに中華には此術衰て、今万国の中に我朝ほど是に精きは無く、琉球次之、其佗に有る事お不聞、是故に琉球より中華へ聘問の折柄は、究て中華の国手迎えて琉球の許可お得るとかや、是にて此術の我国より遼に劣たる事お想ふべし、其外琉球の事お記せし、定西物語と雲小冊の我櫃中に在しお、粤に書加んと捜之共紛失せり、