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長崎夜話草

塔伽沙谷(たかさご)之事〈并〉国姓邪物語 塔伽沙谷(たかさご)は、唐土東南の海中に在島国にて、本は国主もなく、〈◯中略〉いつの比よりか紅毛人住居して、平戸へ渡海の便りとす、則名お台湾と改め、城墎お築て住居せり、しかるに寛文元辛丑の年、国姓邪福州泉州の軍援兵なふして利お失ひ、台湾に責入、紅毛お追落し、城墎お押取て住居とす、是より紅毛は咬【G口・留】吧(じやがたら)に落行て住居す、されば此国姓邪は、父お名は鄭芝竜と雲、一官老と称して、福州の者なりしが、明朝変乱の時に及んで、海島の賊船おかたらひ、撻靼に不属して呉三桂に通路し、海辺の所々徒党多しといへ共、味方士卒少きゆへ、急に福建道お討したがへる事あたはず、海島にかくれ居て、時お待て謀略おめぐらし、又は商舶に乗て数々日本の五島、平戸、長崎の間に往来して年お経たり、其比平戸に妻ありて、男子一人産り、又長崎にも妾ありて、男子一人あり、其身はしば〳〵福州へ渡海して、軍旅怠る事なく、属徒漸く多勢に成て、終に泉州章州お責取、福建道お始め、福州城お築て居城とし、勢ひ漸く盛にして、十五省お并呑せり、此時に到りて平戸なる妻子おむかふ、其船長崎に入津し、此旨関東へ注進ありて、公けの旨により、平戸の男子十七歳なりしお長崎に送られ、長崎より帰帆す、其母は此時に行ず、後に又行しとかや、此男子後に鄭成功といひ、国姓邪と号せしは是なり、又五島一官といふ者あり、芝竜が旧友にして五島に住居し、領主の寵愛に依て年お送りぬ、其一男子お鄭成功平戸に留め置て友とす、既に鄭成功日本の御免お得て、福州に到るに臨て、五島一官が子お〓(いさな)ひ住んことおねがひ訟ふ、公けも御憐愍ありて、其心に任すべしとの御事にて、一官が子鄭成功と同じく出船す、則福州城内に入て、鄭成功と一所に在て、昼夜坐臥お同ふして遊ぶ事三年、城外四辺の名跡所々見めぐり、近き程南京西湖(せいこ)等にあそばしめんといひて、さま〴〵日ごとの馳走美お尽せりといへども、唯日本おなつかしとおもふ心しきりなりければ、強て暇お乞しに、さま〴〵留められしかど、老親に事よせて終に長崎へかへりぬ、此おのこ日本風俗にあらため、清川氏久右衛門と号し、元禄年中まで存命(なからへ)居て、福建道所所の物語、国姓邪城中のありさま、男女の風俗、四季折節の儀式、城内正朔元三に門戸に松竹お飾り立る事、日本のごとく祝(ことぶ)きしたぐひ、鄭成功日本故郷お慕ふの意深かりしと見えたり、是より今に福閩(ふくみん)の間、正月門松立る所多しと聞伝ふ、偖鄭成功が別腹の弟も長崎にありしお、福州よりむかへもせずして、長崎に居住せしが、後に国姓邪日本へ便船ありて、援兵お乞し時、おのれ行ん事お願ふといへども、公けの許しなくて、ついに不行、援兵も又ゆるしなくしてむなしく便船は帰され、本朝へ珍貨の音物共も、受給はずしてかへされぬ、此時国姓邪は福建道お平均し、南京析江(せつかう)までしたがへ、北京の帝都に責上り、北京城お責て、既に勝利お得べかりしが、撻旦の勢は日々に数そひ、味方には援兵なくして、終に敗軍し、福州へ引かへしぬ、呉三桂も雲南貴州の遠境に在て、援兵お出す事あたはず、日本の援兵も協はねば、都て福州城おも撻旦に責破られ、鄭成功は泉州城へ落行ぬ、此時日本平戸よりむかへし鄭成功の母は、我日本お去て援に来れるも、子孫の栄華お見んとおもひてなり、今老て此難にあふ事、何の面目在て又援お去ていづくに往事おせんやといひて、城の楼に登りて自害しつヽ、下なる大河に落入てこそ死にけれ、日本女人のありさまかくの如くなれば、男子の武勇、おしはかりぬと、撻旦の軍勢みな舌おまきけるとかや、国姓邪はしばらく章州泉州に在しが、かねて覚悟したりければ、夏門といふ島に一城お築て居住す、此島章州泉州の地お去事甚近く、要害無双の城地にて、万国への運湊便りよき所なれば、章州泉州等まで、靼旦責破りしかども、此夏門お責る事不協、一島みな国姓邪の領とぞ成にける、夏門は凡そ其廻り日本の三十里にあまりたる島にて、たかさごに近きゆへ、たかさごお責取て、二島お領地とし、時お待て福建道おも再領し、大明の世お再興せんとおもふ志し深かりければ、夏門の名お改め、思明州と号せしは、明朝お思ふの意なり、又壱湾の名おあらため、東寧(とうねい)と称せしも、日本お忘れず、故郷お祝きし意とかや、国姓邪智謀無双の軍将たりし事、長崎人の明清闘記に委し、眼前見聞し事なれど、これもいまはむかしと成て、知人もなければ、おもひ出るあらましとて、老たるが語りしおしるし侍りぬ、国姓邪は日本寛文六年の比、東寧にて終りぬ、其子錦舎(きんしや)遺跡お続て、なお東寧お治め持て、清朝にしたがはずして在しが、是も死して、其子奏舎(そうしや)なお相続して在しかども、中々父祖には似もせぬ器量にて、十五省に味方なく、呉三桂も死して、遺族もちり〴〵なれば、心ぼそくやおもひけん、清朝に降参し、東寧お開きて北京に到りて、東海王に封ぜられ、広大の宅地お賜はり、今にありやなしや、飛鳥川の淵瀬は、もろこしもおなじ世のながれにて、常なきお常とす、凱おもはざらんや、