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古事記伝
三十二
美知能斯理は道之後なり、凡て道前道後の事は、黒田宮段〈伝廿一の五十葉〉に雲り、此の道後は、日向国お指て詔へるなり、其は京より下る道の次第に因て、筑紫の国々は北なるお前とし、南なるお後として、〈筑前筑後、豊前豊後、肥前肥後、皆然り、〉日向〈大隅薩摩〉は、筑紫の南極なるが故なり、〈又は諸県郡お指て詔へりとも雲べし、此郡は日向国の南の極なり、和名抄に挙たる、彼国の郡の次第も、北より初まりて南に終れり、又伊勢国にて度会多気飯野三郡お神三郡と雲、又雲道後と神宮雑例集と雲物に雲る、是も彼三郡は、彼国の南極にて、京より下る道後なればなり、されど此はなほ広く日向国とするぞまさるべき、〉万葉十一〈七丁〉に、路後、深津島山とあるは、備後お雲り、〈又十七に、美知乃奈加とあるは、越中なり、〉