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東遊記

親不知 越中越後の堺に、親不知子不知といふ所あり、北陸道第一の難所としてあまねく人のしる所也、越中立山の裾、北海へ張出たる所にて、市振といふ駅より、歌といふ所迄お山の下と称して二里半あり、立山の裾なる故に、断巌絶壁にて路径も付がたき故に、波打際お旅人通行する事なり、一方は壁お立たるごとき山、一方は大海なり、風無く波静なる日は、旅人通行する道幅七八間或は十間計あり、又所によりて半丁一丁もある所あり、然るに風起り波荒き時は、直に彼絶壁の所へ波打かけて通路なし、右二里半のうちに、一か所長さ五六丁の間、別て路幅狭き所あるお、世に親不知子不知といふ、甚難所にして、親も子お思ふにいとまなしといふ心より、土俗称し来りたる也、其間絶壁の根に岩穴ありて、十間程づヽ置て、其穴いくつも有り、波の打よする時は、通行の人此穴へ走り入て、波の引時お見合て走り過、又波来れば次の穴に入て是お避く、もし北風強き時は、数日お歴るといへども通行ならずとなり、去々年も越後の商人越中に越るとて、此所お無理に通りかヽり、中程にて波風殊に強くなり、件の穴に逃入たるに、穴際まで大浪打かけて走り過べき際なく、八日が間其穴の中に居、やう〳〵波風静り、命たすかり、其穴お出たり、其間の飢渇心遣ひ、いふに詞なしと語れり、波高き日無理に通りかヽり、穴中に避隠れて出べき際なく、二日三日穴に居る人は、年々多き事とぞ、余が通行せし時は、雨天にて波風はさのみ強からざりしかども、上の山は傾くがごとく聳え、寄せ来る浪は足お引去れば甚恐しき事今に忘れず、余が友富山の佐伯某此所お通りしには、其身は肩輿に乗り居しが、人足二三十人にて其肩輿お守護し、波の間お走りぬけては穴へ隠れ、走りぬけては穴に隠れて、やう〳〵に過しと語れり、総じて此辺の人足は、浪お避けて走ることに妙お得たり、されば此地の人夫大勢お召連れ行時は、大抵の浪風には滞ることなしといへり、扠此親不知お過て、少し山のふところに人家ある所お歌村と雲、其村お過、又波打際お行けば駒返りと雲難所あり、此所は波風なき時といへども、常に山の根へ波打かけ、通路なりがたきゆえに、絶壁の中半に岩お穿ちて細き道お付、旅人通行す、其間才の所なれども、馬上なりがたき故に駒返りと名付く、馬は両方の駅より牽来り、荷物は其才の所お人夫にて送り越すことなり、歌村より一里半にして青海といふ駅あり、此所は山下お通りぬけて少し広み也、市振より青海まで四里の所難所なり、風波の時は王侯の勢ひにても越ること成難し、誠に一人是お守れば、万夫も過ることあたはざるの要害の地也、故に市振は御領所にて関あり、往来の人お改る、余医者にて総髪なる故に、別て丁寧に吟味ありき、誠に左もあるべし、他所と違ひ、一方は大海、一方は万仞の高山、南の方へ数十里連り聳えたれば、廻りても通るべき道なし天険とはかヽる所おいふべしかほどの難所なれども、夏の頃天気格別晴朗にして、風波静なる日は道路に少しの高低もなく、糸お引たるごとき波打際の事なれば、難所ともしらず、隻風景のよき所とのみ思ひて、通行する人多しとなり、