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類聚名物考
地理六
はこねぢ 箱根路 国史お考ふるに、延暦十一年に、不尽の山焼て、沙石の飛ちりふたかれるに依て、足柄の道かよひ絶しほどに、初て箱根の道おひらかれけれども、次の年に、又もとの足柄の道にかへされたる事見ゆ、しかるに今は此道のみ通へる事となりて、いつしかに足柄の道は往来まれなり、万葉集の防人の往来など、みな足柄の道にかヽりて、手児のよひ坂など雲、みな此道の事なり、その後も更級日記なども、此道お通りて箱根へかヽらず、今の矢倉沢関の道にて、大山の麓おめぐりて、駿河へ出たる道也、太平記などの比は、此箱根の戦たび〳〵見ゆ、其外海道の紀行、みな箱根お越たり、貞観六年七年の比も、富士焼て甲斐駿河の地埋れし事など見ゆれば、延暦より貞観の比まで、富士の烟も立にしお、大きに焼ぬる故に、火気のちりて、その後は絶しにや、延喜の比には、すでに烟不立といへるにてしるべし、昔は箱荷といへり、万葉集にも東人の荷前の箱ともよみ、又公に荷前の使など雲事もある也、それは思ふに、二子山中に在て、この山おめぐれる道なればいふ歟、二子は二山相似て並立るよりていへるお、箱の蓋と懸子によせて、箱荷とはいへる成べし、荷お今根といふは、借字にて箱峯の略也、