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信長記

道橋修理事 去程に累年の乱逆により、辺土遠境は雲にも及ず、東山東海の大路も虧ては失れども、繕ふ事もなければ、道せばく橋板朽去り、山路元来絶果て、谷に下り峯に攀、往還の人馬不労と雲事なし、されば天正三年正月五日、信濃公篠岡八右衛門尉、坂井文助、高野藤蔵、山口太郎兵衛尉お召て、正二両月は強て農桑の時に非ず、其暇お以四人奉行して、海道筋広さ三間半(○○○○○○○○)、佐々の大道三間道の多く曲たる所おば見計直につけ(○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○)、石お除、牛馬の蹄労せざるやうにして、道の両辺に松柳可植、道は不踏者なければ、士農工商共に申懸、二月中に其功お終べし、尚万民不痛様にと宣て、黄金百両、八木五百石、彼四人賄賂として下し給ふ、是万民に臨時の課役お懸られん事お厭ひ思召に依て也、沢昆虫までに及とは、かやうの事おや可申、されば奉行の者も、糠藁計こそ其所々にして請取、其外は塵おも受ざりき、角て二月下旬には、道橋悉く出来せしかば、往還の旅人喜悦の思お含んで、此君の福は尭俊、寿は彭祖東方朔にもまさらせ給へと、市堅咳童に至まで、祝し奉らずと雲事なし、