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碩鼠漫筆

一里塚起原 諸国に一里塚お築かせられしは、慶長九年と雲お正しとすべし、〈◯中略〉さるお江戸町年寄樽藤左衛門由緒書に、慶長十七子年、東海道、中山道、一里塚出来候御用、樽藤左衛門、奈良屋市右衛門両人江被仰付、藤左衛門道中 罷越、差図仕為築立罷帰候、銀子拝領仕候、〈奈良屋市右衛門由緒書亦同〉とあるは誤りなるべし、〈◯中略〉さて此一里塚は、織田家御当家等の新儀にはあらず、漢土の古事に拠られしなり、さるは北史巻六十四〈列伝五十二韋孝寛伝〉に、廃帝二年、為雍州刺史、先是路側一里置一土堠、経雨頽毀、毎須修之、自孝寛臨州、仍勒部内、当堠処植槐樹代之、既免修復、行旅又得庇蔭、周文後見、怪問知之、曰、凱得一州独爾、当令天下同之、於是令諸州夾道一里種一樹、十里種三樹、百里種五樹焉、とあるおみるべし、土堠は則一里塚にて、こは慶長九年より、千百余年の古へに係れり、但先是とあれば、猶上古より有けるなるべし、