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梅園日記

一里町数 玉勝間に、道の程お三十六町お一里とするは、いつの世よりのさだめならん、〈◯中略〉とあり、按ずるに語林類葉に、上の文お挙て、又雲、太平記巻十三、〈竜馬奏進の条〉今朝卯の刻に、出雲のとんだお立て、酉の刻のはじめに京著す、其道すでに七十六里とあり、拾芥抄田籍部雲三十六町為一里とあるは、富士の道記よりは、太平記先なりとの意なるべし、なほ先なるは、東大寺造立供養記に、文治二年周防国より材木お出しヽ事お記して、木津至于海七里、注に三十六町為一里とあるは、東国の一里は六町にてたがへば也、明恵上人渡天行程記に、従大唐長安京、到摩訶多国王舎城五万里、〈小里定也、六町一里定、按に原本此注逸す今補ふ、〉即当八千三百卅三里十二町也、〈大里(○○)定也、三十六町一里定、〉百里〈小里(○○)〉十六里廿四町〈大里定也〉とあるは、唐土は六町一里といひけん故に、かく記したるならん、又平家物語〈瀬尾最期条〉に、備前国福隆寺縄手は、はたばり弓杖一杖ばかりにて、遠さは西国道の一里也とあるも、三十六町一里なるべし、長門本平家物語に、〈兵庫島のことお雲て〉はたよりおきへ一里三十六町出してぞつき出したりけるといひ、沙石集に、高野の大塔は不二の総体なり、それより改所へ五り百八十町に弥勒の御座は雲々といへるは、一里と三十六町、五里と百八十町には非ず、三十六町お一里とし、百八十町お五里〈是も三十六町の一里なり〉としたるおしらせたるなり、梅松論に、建武三年三月二日、筑前の道お記したるも、又此定めなり、又東国の里程は、吾妻鏡に、文治五年九月十一日、今朝令立陳岡給、自是厨川柵者、依為廿五里行程、未属黄昏、著御件館とあるは、陸奥の事なり、虎関の済北集に正和壬子四月十二、相之海水変赤、西自豆駿東距武総、沿海浜三百余里、朱漣丹涛汪々然也、最須敬重絵詞に、如信上人は、奥州大網東山といふ所に居おしめ給けるに、かの禅室おさる事、坂東のみち三十里、西の方によりて金沢といふ所に、乗善坊といふ人ありなどいへるは、皆六町一里なるべし、〈此後廻国雑記、梅花無尽蔵、宗長手記、河越記にしるせるも皆此定也、〉又語林類葉に引たる外にも、太平記に三十六町お一里といひたるは、第五巻に、切目王子より十津河迄お三十余里といひ、七巻に、麻耶より京迄お二十里といひ、十一に、書写山より比叡山までお三十五里といひ、兵庫より京までお十八里といひ、十八に、山路八里といひ、廿一に、京より湊川までお十八里といひ、〈流布本八里とあるは誤なり〉湊川より賀久川迄お十六里といひ、廿五に、楠が館へ七里といひ、廿九に、七里半の山中といひ、三十八に、白峯と歌津と其あはひ二里といへるなどは、皆三十六町一里なり、又同書に、六町一里おいへるは、十巻に四方八百里に余れる武蔵野といひ、三十一に、小手差原より石浜まで、坂東道四十六里といひ、三十九に、宇都宮より武蔵国迄お、坂東道八十里といへるなど、みな六町一里なり、〈十巻に、義貞三里引退て、入間川に陣おとる、鎌倉勢も三里引退て、久米川に陣おぞ取たりける、両陣相去其間お見渡せば、三十余町に足ざりけりとあり、此文お見ては、六里お三十余町にたらずといふごとく思はるれども、あゆみては三十六町あれば六里なれども、さしわたしには三十余〉〈町にたらずといふ事にて、これも六町一里なり、〉甲陽軍艦にも、上道東道といふ事多く見えたり、其中にも謙信他界の跡さだつ事といへる条に、三郎殿たまらずして、越後の内、府中のお館といふ城へ取籠給ふ、春日山城よりお館の城へは、上道一里半、東道九里也とあり、是にて上道は三十六町一里(○○○○○○○○○)、東道は六町一里(○○○○○○○)なる事明かなり、相模の七里が浜、上総の九十九里の浜、みな此定めなり、又百因縁集〈花園左大臣事〉に、京より男山は遥の程ぞかし、注に及二十里、大王里也とあり、王は三の誤にて、大三里也なるべし、此書正嘉元年常陸にての作なれば、京の事おも、東国の六町一里にて記したるなり、大三里は渡天行程記にいへる大里にて、三十六町一里なり、〈六町一里にて二十里は百二十町なれば、三十六町一里にすれば三里と十二町なれど、成数おいへるなるべし、〉 附識す、渡天行程記に、六町一里お記したるは、唐土此定めなりといふこと、むかしもいひしならん、されども六町一里にあらず、其証は揚万里誠斎詩話に、東坡詩雲、臥占寛閑五百弓、七尺二寸為一弓、事見訳梵、一尺八寸為一肘、四肘為一弓、今通鑑二百四十八巻、史昭釈文引薩波多論雲、西天度地以四肘為一弓、去村店五百弓、不遠不近、以閑静処為蘭若、今以唐尺計之、蓋二里許也とあり、一弓七尺二寸なれば、五百弓は三百六十丈なり、さて二里許といへるお二里とすれば、一里は百八十丈也、皇朝の一町六十間は三十六丈なり、是にて百八十丈〈宋の時の尺、皇朝と多くは違はじ、〉お除すれば五となる、即皇朝の五町なり、又楊氏東坡が詩といへるは誤也、鶴林玉露雑組等に、王荊公詩とあるお是とす、