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古事記伝
二十三
高志道、高志は越国にて上巻に出、〈伝十一の〉道の事は次に雲、〈式に越中国射水郡道神社、加賀国石川郡味知神社あり、姓氏録に道公、大彦命孫彦屋主田心命之後也なども見ゆ、此らは此の道には縁なきことなるべけれど且く出しつ、◯中略〉東方十二道、東方は、比牟加志能加多と訓べし、〈方お師の倍と訓れたれど、かかる処にては倍はわろし、〉古は凡東西北北みな加多と雲ことお多く添て雲る例なり、十二道は十二国お雲なり、国造本紀〈上毛野国造条〉に東方十二国とあり、上の高志道も下文には高志国とあり、又孝徳紀に、前以良家大夫使治東方八道、既而国司之任、六人奉法、二人違令雲々とある、此に国司八人の事お雲るにて、八道は八国なること明らけし、〈八国は此の十二国の内の八国なるべし、〉さて十二は何れの国々お合せたる数にか今さだかに知がたし、されどこヽろみに雲は、伊勢、〈伊賀志摩は、此国に属べし、〉尾張、参河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、武蔵、総〈上総下総なり、安房は、後に上総より分れたり、〉常陸、陸奥、〈此国は、後には東海道には入ざれども、下文に、往遇于相津とあれば、此十二国の内なり、又倭建命段にも東方十二道とありて、蝦夷お言向たまひし事の見えたるおも思ふべし、〉なるべきか、倭建命段にも東方十二道とあり、是上代の定めなりけむかし、さて国お道と雲は、朝廷より其国お治めに人お遣すに就て雲称なり、先神代に、天尾羽張神の言に、恐之仕奉、然於此道者、僕子建御雷神可遣とあるは、天神の御使に答白し賜へる言にて、此道とは、葦原中国お言向に罷ことお雲り、さて黒田宮段に、針間為道口、以言向和吉備国とあるも、針間お言向る国の初とするお、為道口と雲るなり、又丹波道主と申す王の名も、丹波国お治めに遣され賜しに因て、道主とは申せるなり、此等其段々〈伝廿一の五十一葉同廿二の六十二葉〉お見て考合すべし、上に高志道とある道も此意なり、〈此お書紀には、北陸とあるに依て、たゞ後に雲北陸道のことぞとのみ心得ては、道と雲る義足はず、〉されば後に、東海道東山道など雲名お建て、天下お総て、畿外お七道と分定められたるも、まづは漢国の制〈唐太宗が時に彼国内お分て初て十道と定めたり、〉にならひ、且は上代より雲来つる称にも沿賜へる物なるべし、