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古事記伝
二十七
此段書紀には、蝦夷既平、自日高見国還之、西南歴常陸至甲斐国、居于酒折宮雲雲、於是日本武尊曰、蝦夷凶首咸伏其辜、唯信濃国越国頗未従化、則自甲斐北転歴武蔵上野、西逮于碓日坂、時日本武尊毎有顧弟橘媛之情、故登碓日嶺而東南望之、三歎曰、吾嬬者耶、故因号山東諸国曰吾嬬国也、於是分道遣吉備武彦於越国、令監察其地形嶮易、及人民順不、則日本武尊進入信濃とあり、此記と異なること多し、其差お論らはむに、先其路次、此記の趣は蝦夷お言向て還坐、相模より足柄山お越て甲斐に到坐、其より信濃お経て尾張に還坐る国の次第、皆よくかなへるお、書紀には歴常陸至甲斐国とありて、後に自甲斐北転歴武蔵上野、西逮于碓日坂雲々、進入信濃とあるは路次順はず、〈其故は、常陸より甲斐に到る間には、武蔵もあり、或は相模もあるお、其お雲はで、直に歴常陸至甲斐と雲るは、連きたる国のごとくにていかゞ、歴常陸武蔵などこそ雲べけれ、但し常陸おのみ殊に雲るは、御歌に其国の地名あるがためにてもあるべし、さて又甲斐より信濃へ行むに、武蔵上野へ転歴むは、路次いたく違へり、若武蔵上野にも背ける者などありて、故に言向に幸るか、然らば其事お必雲べし、雲ずては由なく聞ゆ、されば此は歴常陸武蔵上野、西逮于碓日坂とありけむが、伝のまぎれて前後の乱れつるにやあらむ〉又右の如くにては、甲斐国に至り賜へることも何の由とも聞えず、〈此記の如きは、常陸、武蔵、相模、甲斐、信濃と路次なるお、書紀は然らざればなり、若右に雲る如く、常陸、武蔵、上野お歴て、碓日坂お越て信濃に幸せるならば、甲斐へは、其後に信濃より別に幸せりとせむか、されどさては歌の、九夜十日の日数少くて、あまり速なり、左右に甲斐に幸せる事、由なく聞ゆ、〉さて彼御歎ありし地も、足柄と碓日と伝の異なる、此は何れか正しからむ、決めかねつ、