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東雅
三地輿
京畿の外、東西南北の国お七道に分たれし事の初、崇神天皇の御時、大彦命、武渟川別、吉備津彦、丹波道主命等お、北陸、東海、西海、丹波の四道へわかち遣はされしと見えしは、北陸東海などいふ事の見えし始なり、〈北陸東海の事は、前の方位の条に見えたり、されど是らもまた国史に見えし所おいふなり、〉其後景行天皇の御時、彦狭島王お東山道十五国都督となされしと見えしは、東山道といふ事の始なり、又其後成務天皇の御時、国県お分て邑里お定め、以東西為日縦、南北為日横、山陽曰影面、山陰曰背面と見えしは、山陽山陰などいふ事の始なり、又其後孝徳天皇の御時、畿内国お定られしと見えしは、畿内といふ事の始なり、天武天皇十四年九月、東海、東山、山陽、山陰、南海、筑紫に使者お遣されしと見えしは、南海といふ事の始なり、文武天皇大宝元年六月、凡国宰郡司、其庶務一依新令と勅せられ、是日遣使七道、宣告依新令為政せられしに至りて、遂に畿内、東海、東山、北陸、山陰、南海、西海の七道お定め置れし事の始なりけり、