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橘庵漫筆

木曾街道(○○○○)は、往古は今のごとく人馬の往来決してなしと見えたり、謡曲の山姥の発端に、善光ぞと影たのむと次第お作れり、一部の趣意は、都の舞女信州善光寺詣お志し、越路へむかひ、越後のあげ路の山にて山姥に逢し旨なり、誠に昔は今の葛橋畚の渡しなども、桟の中にまぢり、中々たやすく他邦のものヽ渡り得べき路程ならず、実に命おつなぐと雲しごとく樵夫も行なやみし歟、京都より百里に足らぬ信州善光寺へ、弐百里も有越後廻りおするお見るべし、平家既に関東へ向ふにも、北陸道へ出たり、木曾殿これに向はるヽに、万一木曾路自由ならば、美濃路お経て兵お分ち、平家の粮道お断るべきに、倶利迦羅に向はるヽも、木曾の坂路自由ならずと思はる、加能越お越て信州に至る順路明らけし、しかるに昭平弐百年已来、莫大の人工お以、断岸絶壁お開かれ、駅舎お定給ひて、木曾路の行程川支(かわつかへ)の憂なく、億兆の士民其恩沢お蒙奉ること、実(げに)道広き御代とは此時なるかな、