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橋は、はしと雲ふ、之お水上に架して、以て人物の往来運搬等に供するものにして、木お以てするお普通と為し、石お以てするもの之に亜ぐ、希には綱及び藤葛お両岸に互すものあり、又舟お比べて橋に代ふるあり、其他之お細別すれば其種類甚だ多し、 本邦に於て橋梁の設ある、遠く神代に起りて、伊奘諾、伊奘冉二尊の時、既に天浮橋に乗りて天降り給ひしことあり、天孫降臨の頃には大橋、小橋、高橋、打橋、浮橋等の称あり、又之と相前後して、或は俵お積み、或は弓お横へ、或は䑻お編みて以て橋お造りしことも古史中に散見せり、推古天皇の朝に至り、百済の人芝耆麻呂帰化して呉橋お造る、時人大に其巧妙お称せり、漢風の橋お造ること是に始まる、 大宝の制、凡そ天下の道橋は民部省の管する所にして、京師は左右京職、諸国は国司の分轄する所たり、〈神郡は宮司之お掌る〉而して其之お修営するに当りては、京内の大橋及び宮城門前の橋は、並に之お木工寮に命じ、自余は京内の雑徭お役して、造らしむ、諸国に在りては、毎年九十両月の交、即ち秋収の後お待て修理せしむ、蓋し一は以て農の時お妨げざらんが為にして、一は以て貢調の便に備へんが為なるべし、 往時宇治、山崎、勢多お三大橋と称し、並に橋吏お置けり、橋吏は、はしもりと雲ふ、即ち橋お守護するの謂なり、中世以降は僅に橋行事若しくは橋警固と称して、検非違使又は守護所司代等おして、臨時に警衛せしめしが、徳川幕府の時に至りては、多く橋番屋と称して、橋の両端に小屋お設け、橋吏おして常に此に住せしめ、又橋附手当船お置て不時の用に供せしむ其橋吏には定番人あり、添番人あり、下番人あり、書役あり、常には糞土お掃除し、破損お検察せしめ、若し出火、出水等の事あるに及びては、橋掛名主、橋番請負人、水防請負人等と共に、橋附抱人足、及び附近の船持、船乗、車力等お率いて、之が防御お為さしめたり、 初め王朝の法たる、凡そ橋お造らんとするときは、必ず先づ造橋所お設け、臨時に宣旨お下して造橋使お任じ、其用度の如きは、或は諸国に課し、或は没官者の資財お以て之に充つることもありしが、延喜の制、毎年銭稲お出挙し、其利息お以て造橋の料に充てたり、然れども世お歴るの久しきに及て、此法漸く行はれず、是に於てか私に資金お醵集して之お修造するの挙盛に興る、而して多くは僧徒の募縁する所に係る、之お勧進橋と雲ふ、抑も僧徒の力お橋梁に用いしや、其由て来る所遠し、而して孝徳天皇の朝、元興寺の僧道登が宇治橋お造れるお以て最も古しとす、是より後、行基、勝道の輩、皆造橋お以て事と為したり、而して其成るに及びては、橋供養と称して必ず仏会お修せり、 織田氏より豊臣氏お歴て、造橋の事漸く整ふ、秀吉が三条橋お造り、其柱お石にせしが如き、是お石柱お用いる始とす、此時三大橋始て旧に復せり、徳川幕府時代に至りては、橋梁の制も益々備りて、其周到なること前代に過ぎたり、凡そ幕府の制たる、大橋お造らんとするには、必ず之お普請奉行に命じ、其用度は概ね御蔵銀お以て之お弁ぜしが、後には多く諸橋に橋請負人お置て、之に造橋一切の事お担当せしめ、武士、医師、并に神官、僧侶等お除く外、渡橋者より毎人必ず金若干お納めしめ、以て其費用に充てしめたり、然れども其弊や徒に請負人お利するに止りて、其橋の朽損することあるも猶ほ之お修造せず、才に仮橋お設けて以て一時お弥縫するもの火かりしかば、遂に文化四年、永代橋墜落の如き異変お生ずるに至れり、是に於てか幕府も亦甚だ其非なるお覚り、直に之お廃せしかば、市民永く之お徳とすと雲ふ、然りと雖も諸藩に在りては猶ほ此法お墨守するものありて、以て明治の初年に及べり、