[p.0081]
古事記伝

天浮橋は、天と地との間お、神たちの昇降り通ひ賜ふ路にかヽれる橋なり、空に懸れる故に浮橋とはいふならむ、〈和名抄に、巍略五行志雲、洛水浮橋、和名宇岐波之とあるは、水上に浮たるなれば異なり、〉天忍穂耳命、番能邇邇芸命などの天降り坐むとせし時も、天浮橋に立しこと下に見えたり、〈◯中略〉丹後国風土記曰、与謝郡郡家東北隅方、有速石里、此里之海、有長大石前、長二千二百廿九丈、広或所九丈以下、或所十丈以上、廿丈以下、先名天梯立、後名久志浜、然雲者、国生大神伊射奈芸命、天為通行而梯作立、故雲天梯立、神御寝坐間僕伏雲々、此に因ば、此浮橋もと此神の作り坐しなり、さて天に通ふ橋なれば梯階にて立て有しお、神の御寝坐る間に僕れ横たはりて、丹後国の海に遺れるなり、こは倭の天香山、美濃の喪山などの故事の類にて、神代にはかヽることいと多し、後人儒者心もて勿あやしみそ、又播磨国風土記曰、賀古郡益気里有石橋、伝雲、上古之時、此橋至天、八十人衆、上下往来、故曰八十橋、これも天に往来し一の橋と見ゆ、神代には天に昇降る橋、此所彼所にぞありけむ、是お以て思へば、彼御孫命の降りたまふ時立しヽは、此処天浮橋と一にはあらで、別浮橋にぞ有けむ、