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江都管鑰秘鑑

両国橋普請停滞に付真田伊賀守信清身上没収之事 享保年中、町奉行より両国米沢町の名主喜左衛門といふ者お呼て、両国橋の古お尋られけるに、喜左衛門申旨には、両国橋の古は寛文元〈丑〉年始て新規に被仰付候節之御普請奉行、芝山権左衛門、坪内藤右衛門、右之両人へ被仰付、町棟梁大工助左衛門、伝左衛門と申者へ命じ、弐箇年懸りて成就す、其後天和元〈酉〉年に橋朽損じ、人の往来危き体に見えけるに依て、御手伝として真田伊賀守信清に仰付られける、此伊賀守と申は、所謂真田安房守昌幸の嫡子、伊豆守信幸の男子弐人あり、嫡子大内記信政は父の家督お続ぎ、信州上田の城に在住し、位四品に至る、庶子河内守信吉は不幸にして早世しける、其子鶴千代とて男子壱人有けるに、台命に依て大内記より上州沼田の城三万石お分地し、従五位下伊賀守と叙爵し、信清といふ、則此人也、御普請奉行には松平采女、船越左衛門被仰付、矢の倉の脇に仮橋おかけられて馬車お禁じ、人お往来せしむ、此仮橋跡の義お今に元両国橋と諸人申習はせり、然る処に如何の事にや、御材木出来不足にて、橋の普請出来兼候に依て、等閑のいたし方と御咎有て、真田伊賀守身上御取上、奥平大膳大夫御預となり、奉行采女并左衛門は閉門被仰付たり、其後元禄九年迄十五け年の間仮ばし相用、仮橋の修覆等は伊奈半左衛門承り申付られたる旨、先祖の旧記に慥成と申に依て、頓て右之趣お認て官府に止られしとぞ、