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信長公記
十二
天正七年己卯九月十四日、京都にて座頭衆の中に申事有、子細は摂州兵庫に常見と申候て分限之者有、彼者申様には、人毎に致失墜候ては必無力仕候、一期楽々と身お可楽様お案じ出し、彼常見眼者能候へども、千貫出し撿挍に罷成、都に可在京旨存知、其段撿挍衆へ申理、千貫つませ常見撿挍と号し、座頭衆の官配お取、年来都に楽々と在之処に、小座頭共申様には、分限の者如此撿挍に成候はヾ、法度計にて今迄も長久に相続候に、耽金銀賄に猥子細無勿体、其上ばかりお重仕候て、金お取候段迷惑の由、今度信長公へ訴訟申上処、被分聞食、撿挍共条々曲事の旨被仰出、可被成御成敗の処、種々御佗言申、黄金二百枚致進上、御赦免候、則此代物お以て、宇治川平等院の前に橋お懸可申の旨、宮内卿法印、山口甚介両人に被仰付、為末代に候間、丈夫に可懸置旨御諚候訖、