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日光山堂社建立旧記

山菅橋 先吉日お撰て斧始し、川の南、見目の社前に弐通りに仮屋お設け、西お上座とす、川岸の方お衆徒座とす、同く間お隔て社家之座とす、南の仮屋に神橋の乳の木お直し、神橋大工の棟梁狩衣お著し、乳木の左より右に移り中に及び、三度づヽ是お削り、洗米神酒お供ず、番匠弐人白張にて手伝之、規式終て仮屋江神酒供物お持参す、各頂戴して退出す、 一外遷宮日お撰び、橋之左右に白幕お打、同左右に注連お曳、深砂王の社より岩倔の仮屋の許に筵道地布三通敷之、深沙王の鳥居より仮屋まで中央に布一通り引張之、長坂の下に仮屋建つ、東お上座とし、中央に行法壇お飾り、総徒左右に座す、同仮屋お四つに仕切、二の間社家、其次お伶人の座とす、其次お山崎大夫賭所とす、総徒丑刻に来集、寅上刻に及て、左右に在る灯火お一同に消し、外遷宮の規式あり、凡そ外遷宮とは、神橋川上第一の桁〈ちの木〉お、岩倔より引出すお雲、山崎大夫練の狩衣お著、手伝の神人〈十二人〉烏帽子白張にて勤之、人夫浄衣お著し、桁に大綱お掛て一同に引出す、山崎唯一人岩倔に入て、掃除終て、兼而設けし仮屋お岩倔の口に建、戸張注連お曳、七十五膳の御供、并神酒餅等お以て倔中に献備す、其間仮屋に於て行法〈竜神の法〉あり、学頭行之、衆徒中四智讃諸天讃、伶人音楽お奏す、御供献じ終て、山崎大夫仮屋え赤飯并神酒お出す、各頂戴して退出す、正遷宮の次第外遷宮の如し、寅の一点に勤之、新調の桁〓の岩窟に遷宮前、山崎大夫一人岩倔戸張の内に入て、七十五膳の御供、并神酒、餅弊帛、櫛、針等の品々献備す、十二人の神人伝供す、乳木岩倔え入れ納め、神酒神供各頂戴し退散す、山崎大夫外遷宮正遷宮の料として、山中より鳥目并米お送る、神橋御造畢日限お撰び、御供養渡初、橋の上一面に筵道お敷、中際に地布三通敷之、左右に薄縁お敷渡す、総徒巳の刻来集、橋の上南お上座とし、左右に著座、深沙王え本宮上人御供献備、〈山崎大夫方にて調之〉于時衆中四智諸天讃の法事終て御座主御渡初、岩倔に向て御念誦、橋の南より北に渡御、深沙王の社に御参詣、御太刀馬代献上、御念誦終て御退出、総徒東より一列に行道の如し、南に渡り岩倔の方お拝し北に渡て深沙王に参詣退出す、往古より供養の時、毎度葦毛馬追来、最初に是お引渡す、奇妙の例と雲々、往古供養の時は、法事終て祝儀として三日の間田楽、猿楽有之と旧記に見たり、寛永六己巳年五月、将軍秀忠公、神橋替奉行、夏目工左衛門、塚原次左衛門、遷宮供養如先規、寛永十三丙子年、将軍家光公、秋元但馬守藤原泰朝に命じ石柱お建て、新に御造替、添奉行庄田小左衛門、島四郎左衛門、〈長十五間、幅三間五尺、〉遷宮供養如先規、法事終て大僧正天海〈慈眼大師〉御渡初、先条の如し、遷宮の料として白銀百枚、将軍家より山崎大夫に賜之、猿楽、田楽等の祝儀は無之、神橋川下に仮橋お架し、御普請中の通路とす、往古は造畢以後仮橋お毀て、牛馬といへども神橋お通る、若乗うち有れば本宮別所より過料お取也、此時始て仮橋お被残、牛馬の通路とす、此時も供養の時何地ともなく葦毛馬追来、最初に引渡す、万治二年九月御造替、奉行天野弥五右衛門、久永源六、稲野五兵衛、遷宮供養先規の如し、御座主一品守澄法親王御渡初あり、元禄二年巳の十二月、御宮御堂御再興、同三庚午年五月、神橋御懸替、長坂の下に弐通に仮屋お設け、川岸お奉行方の座とす、山際の仮屋お四つに仕切、東お上座として、中央に行法壇お飾り、壇の左右に衆徒著座、二の間社家の座とし、三の間楽人の座とす、四の間は山崎大夫賭所たり、長坂本宮、坂谷口、下馬崎、稲荷川口五箇所、監営方より、英士足軽等お以て警固、川筋より五け所の口々に烑灯数多く高竿に掛て、恰も白昼の如し、参詣の道俗群集す、先規は丑の刻より寅の一点に雖勤之、今度は御奉行中相談之上、酉の刻より戌刻迄に勤之、総奉行井伊掃部頭左近衛少将藤原直興、監営松平陸奥守左近衛少将藤原綱村、添奉行柴田越前守源勝門、中川伊勢守源重泰、官工司鈴木長兵衛、穂積長頼、遷宮供養先規の如し、此時の御造替〈別記に委細也〉御供養終り、御座主二品公弁法親王供奉の行粧お調、〈半供奉〉仮橋お御渡り、石碑の本にて御下輿、供奉之面々前後お囲摎し、先岩倔に向ひ御念誦、橋の中央地布の上お御渡初、深沙王の庭上に新に畳お設け、御太刀馬代御献上、御念誦終て御退出、于時総奉行監営、并御目付、添奉行、本宮の坂本に列候す、御座主御会釈あり、次総徒先条の如く一例に渡て退出、此時とも葦毛馬来、最初に引渡す、諸人奇異思おなす、此橋破壊の節は、御当家累代御造営并遷宮の料銀百枚、山崎大夫に賜之、供養の儀式世に又類なき名橋也、元禄三年御〓始は本宮下清水辺に仮屋お設て勤之、奉行方本宮上人出合、総徒不知之、