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太平記

山崎攻事附久我畷合戦事 四月〈◯元弘三年〉廿七日には、八幡、山崎の合戦と兼てより被定ければ、名越尾張守大手の大将として七千六百余騎、鳥羽の作道より被向、足利治部大輔高氏は搦手の大将として五千余騎、西岡よりぞ被向ける、八幡、山崎の官軍是お聞て、さらば難所に出合て不慮に戦お決せしめよとて、千種頭中将忠顕朝臣は五百余騎にて、大渡の橋(○○○○)お打渡り、赤井河原に被扣、