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太平記
十四
将軍御進発大渡山崎等合戦事 去程に正月〈◯建武三年〉七日に、義貞内裏より退出して軍勢の手分あり、〈◯中略〉大渡(○○)には新田左兵衛督義貞お総大将として、里見、鳥山、山名、桃井、額田、田中、籠沢、千葉、宇都宮、菊池、結城、池風間、小国、河内の兵共一万余騎にて堅めたり、是も橋板三間まばらに引落して、半より東にかい楯おかき、櫓おかきて、川お渡す敵あらば横矢に射、橋桁お渡る者あらば、走りて以て推落す様にぞ構へたる、〈◯中略〉去程に〈◯中略〉正月九日の辰刻に、将軍〈◯足利尊氏〉八十万騎の勢にて、大渡の西の橋爪に推寄、橋桁おや渡らまし、川おや渡さましと見給に、橋の上も川の中も敵の構へきびしければ、如何すべきと思案して、時移るまでぞ引へたる、時に〈◯中略〉橋の上なる櫓より、武者一人矢間の板お推開て、治承に高倉の宮の御合戦の時、宇治橋お三間引落して、橋桁計残て候しおだに、筒井浄妙、矢切但馬なんどは、一条二条の大路よりも広げに、走渡てこそ合戦仕て候ひけるなれ、況や此橋は、かい楯の料に所々板お弛て候へ共、人の渡り得ぬ程の事はあるまじきにて候、坂東より上て京お責られんに、川お阻たる合戦のあらんずるとは思ひ設られてこそ候つらめ、舟も筏も事の煩計にて、よも協候はじ、隻橋の上お渡て、手攻の軍に我等が手なみの程お御覧じ候へと、敵お欺き恥しめてあざ笑てぞ立たりける、是お聞て武蔵守師直が内に、野木与一兵衛入道頼玄とて、大力の早業打物取て世に名お知られたる兵有けるが、〈◯中略〉柄も五尺、身も五尺の備前長刀、右の小脇にかいこみて、治承の合戦は音に聞て目に見たる人なし、浄妙にや劣と我お見よ、敵お目に懸る程ならば、天竺の石橋、蜀川の蟠の橋也とも渡得ずと雲事やあるべきと、高声に広言吐て、橋桁の上にぞ進たる、櫓の上掻楯の陰なる官軍共是お射て落さんと、差攻引収散々に射る、面僅に一尺計ある橋桁の上お歩では矢に違へ、弓手の矢には右の橋桁に飛移り、馬手の矢には左の橋桁へ飛移り、直中お指て射る矢おば、矢切の但馬にはあらねども、切て落さぬ矢はなかりけり、数万騎の敵味方立合て見ける処に、又山川判官が郎等二人、橋桁お渡て継たり、頼玄弥力お得て櫓の下へかつぎ入、堀立たる柱おえいや〳〵と引くに、橋の上にかいたる櫓なれば、橋共にゆるぎ渡て、すはやゆり倒しぬとぞ見へたりける、櫓の上なる射手共四五十人、協はじとや思けけん、飛下々々倒れふためいて、二の木戸の内へ逃入ければ、寄手数十万騎同音に箙お敲てぞ笑ける、すはや敵は引ぞと雲程こそ有りけれ、参河、遠江、美濃、尾張のはやり雄の兵共千余人、馬お乗放々々、我前にとせき合て渡るに、射落されせき落されて、水に溺るヽ者数お知ず、其おも不顧幾程もなき橋の上に、沓の子お打たるが如く、立双て重々に構たる櫓かい楯お引破らんと引ける程に、敵や兼て構おしたりけん、橋桁四五間中より折れて、落入る兵千余人、浮ぬ沈ぬ流行、数万の官軍同音に楯お敲てどつと咲、され共野木与一兵衛入道計は水練さへ達者也ければ、橋の板一枚に乗り、長刀お棹に指て本の陣へぞ帰りける、是より後は橋桁もつヾかず筏も協ず、右てはいつまでか向居べきと責あぐんで思ける、〈◯下略〉