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東照宮御実紀附録
十四
慶長十九年十二月廿九日、仙波と総郭の橋ども城兵みな自焼して、今橋と高麗橋とのみ残りしお、石川主殿頭忠総是お焼せじとて、高麗橋の詰にて鉄炮放して防守せしが、城方よりも同く銃丸烈しく打かけ、忠総が士卒疵蒙る者あまたなれば、使番小栗又一忠政馳来て注進し奉る、永井右近大夫直勝も御前に在て、阿波勢近辺なれば、忠総に力お合せ、橋お救はしめんといへば、御けしき損じ、其方どもはあまりに軍法お知らぬぞ、此橋はこなたより焼度思ひつるに、もし焼なば心得ぬ者は、城責なしと思ひあやまらんかとて捨置しなり、城中より焼落すこそ幸なれ、すて置べし、総責の時橋の一筋が便になるものかと、御怒のあまりに、御側に有し長刀とらせられ立せ玉へば、忠政も直勝も恐入て御前お逃去ぬ、後にまた敵此橋より夜討せんも計り難し、怠なく守れと命ぜられしが、四五日過て確団右衛門直之、此口より阿波津へ夜討おしかけけると也、