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勢陽五鈴遺響
度会郡十一
宇治橋〈及橋姫祠〉 宇治郷今在家と館町の間五十鈴川に架する処なり、方俗大橋と称す、橋の前後に鳥居お建り、本拠旧記未考、慶長九年、宮域にいたる路なれば、鳥居のあるべきと思て、何拠もなく建たるなるべし、鳥居柱太さ末口三尺、長一丈七尺、土入六尺、二丈三尺五寸なり、冠木三尺なり、西の鳥居より東鳥居にいたるの間五十七間半、橋の長五十一間半、闊四間半、高欄高三間、内の間三間一尺二寸、反り一尺一寸、各葱宝珠お置、其造替の年月及奉行の位署鋳工の名お彫す、其新に造る処は内宮遷宮の時に不限、朽損するに従て造替す、工匠は神宮の頭小工職の掌る処に非ず、別に其主宰する処の橋大工(○○○)と称するあり、今に至り橋及び鳥居に至り官営なり、此地に架する処は、旧記雲、永六年、内宮大橋自普光院有御渡、供養一万部御経、其作法如北野、御経奉行御炊大夫元秀也雲々、是永享六年、足利将軍普広院義政公の二宮参向のときに架せらるお権輿とす、神皇年暦、及普広院殿二度参向の事蹟は、神宮年代記に載たり、或雲、古昔宇治橋と称して架する処は此地にあらず、五十鈴河の下流十余町、字は曾波町原と雲、中村興玉森の西の処に、老杉樹二株今も存す、是橋及橋姫祠の旧地とす、古昔の詣路にして此処に架せしなり、些少にして五十鈴河の下流お渉る仮橋に同じ、〈◯中略〉今の官営の橋は其古昔とは少く闊大に造らるに似たり、典拠の処在に拠るときは、大永年中記雲、橋長四十三間、幅四間、柱数四十二本、御代柱三丈六尺、板数三百六十枚、厚七寸、落しの釘三百六十本、代輪附鉸三百六十本、西の鳥居より東鳥居迄五十二間二尺と載す、今詳にするに永享六年普広院将軍始て架らるの言に拠て寛正記享徳元年修補お僧徒に託するの説お閲るに、永享六年より享徳元年に至り、稍く十八年お歴たり、然るに修補お加ふべきにいたり其業不遂に至り、六七年お歴て長禄二年、十穀法師架して、万部法華経供養す由、物忌年代記に載せ、又寛正六年、同十穀法師架するとも雲、長禄二年より寛正六年にいたり九年お歴たり、是才の年紀にして朽損すべきなし、異記とすべし、又永正二年慶光院第二世守悦上人本願として架す、寛正六より四十一年の後にして其廃絶するに至、又天文十四年、尼本願と載るときは、或雲同第三世清順上人なるべし、永正二年より天文十四年に至り、又四十一年お歴て修架に至れり、其後天正八年、同十九年、慶長十一年、元和、寛永十九年、正徳五年、其余近世連綿して官営也、澆季といへども、足利将軍より僧徒の修造お受て、織田、豊臣の二公の嗣て営せらるに及て、今昇平の経営に及て存する処は、嘉賞すべきと雲べし、